「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

二〇〇四年十二月
 
 
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十二月一日(水)
「新・二匹の恢復74」
 
 猫たちは今日も元気。だがぼくが元気じゃない。背中を寝違えてしまったようだ。右を向くと左の肩甲骨のあたりの筋肉がひどく痛む。直立しているのが苦痛だ。
 
 七時十五分起床。八時三十分、事務所へ。冬空の澄んだ青さには冷たさもいっしょに潜んでいる。夕焼けのような色をした葉があらかた落ちてしまった柿の木の変わりように驚きながら、すこしだけ身をちぢこませて歩く。
 
 E社企画、E社パンフレットなど。
 十三時、カイロプラクティック。寝違え、すこし楽になったが依然として痛む。
 十六時、飯田橋のE社にて打ちあわせ。つづいて麻布十番のO社にて打ちあわせ。
 
 二十二時帰宅。
 
 大西巨人『深淵』。おなじ冤罪裁判でも、こうまで違うものなのか…。その書きわけのうまさは、文章力よりも構成力に支えられているように思える。
 
 
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十二月二日(木)
「新・二匹の恢復75」
 
 七時二十分起床。冬晴れ。その分冷え込みも厳しいようだ。今年は季節がいきなり殴り込んでくるように移ろう。夏から秋にかけても、だんだん涼しくなってきたという感覚はまったくなかった。秋から冬にかけてもおなじだ。寒かったのか、夕べは花子め何度も蒲団に入れてくれとせがんだ。だがそのたびに上半身を起こすと寝違えた背中がひどく痛んで苦しい。
 
 八時四十分、事務所へ。E社企画など。
 十四時、五反田のL社へ。十七時三十分、帰社。E社の別の案件を済ませる。
 二十時、帰宅。
 
 大西巨人『深淵』。記憶の恢復が、冤罪は冤罪でないことの証明へと結びつきはじめる。
 
 
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十二月三日(金)
「新・二匹の恢復76」
 
 七時三十分起床。朝から打ちあわせがある日は一日のリズムが狂ってしまってどうも調子が出ない。どことなくぎこちない動作で身支度を進めるぼくを、花子は「今日は変だな」と感じているにちがいない。起き上がってからは猫と接する時間はほとんどないわけなのだが、それでもたとえば、牛乳を与え忘れたり――もっとも今朝は求めなかったのだが――している。敏感な動物は変化というものを受け容れにくいにちがいない。だとすれば、まもなくご対面も近いはずの猫たちに、ぼくはどのような形で「変化」を示すべきなのか。猫たちがそれを「変化」ではなく「進展」として捉えてくれるためには、何をするべきなのだろうか。
 
 十時、小石川のL社へ。久々に目にする桜並木は、木肌はますます黒々と沈み、空に不規則に広がる枝からはほとんどの葉が散り、わずかにうなだれる人の頭のように、残った葉が下へ、下へとぶら下がっている。歩道に枯れ葉が見当らないのは近隣の住民が掃き掃除を怠らないからだろうけれど、落葉を踏みしめる感覚をたのしめないのは少々さみしい。
TさんらとG社の打ちあわせを小一時間ほど。
 
 十二時帰社。「ひごもんず」でとんこつラーメンを啜ってからは、E社企画など。二十時、店じまい。
 
 大西巨人『深淵』。おもしろいんだけど、じっくり読んでいる時間がないなあ。
 
 
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十二月四日(土)
「新・二匹の恢復77」
 
 八時起床。頭の中がどんよりしているのは、いつもより三十分ほど寝すぎたからか、それともたんに疲れているのか。この「疲れ」というものがやっかいで、持て余すと周囲をたちまち不幸にしてしまう。むろんそれは大きな害や災難をふりまくほどのものではないのだけれど、精神の深いところにじわりと効いてくるから、表面的な事故やポカよりよほど厄介だ。猫たちもニンゲンの「疲れ」には敏感らしい。ひどく疲れているときは慰めてくれるのだが、疲れていることを態度に出すと、マイナスのエネルギーに影響されてしまうのだろうか、怒りっぽくなったりすることもある。今回の不仲のきっかけも、振り返ればおそらくは周囲にいたニンゲン、つまりぼくら夫婦が知らず知らずに溜め込んだストレスが原因だったのではないかと思うこともある。
 
 九時三十分、事務所へ。E社企画など。頭痛がするので整骨院でマッサージと軽い整体。
 二十一時、帰宅。外はしとしととゆるい冬の雨。「ぼん・しいく」で食事してから帰る。
 
 夜は花子とふたり、暗いダイニングテーブルで食卓灯だけをともして読書しながら酒盛りをした。
 
 大西巨人『深淵』。
 
 
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十二月五日(日)
「新・二匹の恢復77」
 
 久々の休日。だらだらと十時まで寝るが、そのあとはごくごく平凡な日曜日という過ごし方。猫たちはぼくら夫婦ふたりがいるからか、いつもより要求が多いように思える。
 
 午後より外出。不自然なほどの暖かさ。明け方に台風並みの低気圧が猛威を振るい、風の音のやかましさに恐怖した麦次郎が大騒ぎしていたらしいが、まるで気づかなかったのは仕事疲れで愚鈍になっているからなのか。台風一過、と言いたくなるような青空が広がっている。季節外れの暖かさにすこしだけ汗する。のちに知ったが、夏日だったらしい。
 義母宅で不在の義母に代わって桃子の世話をしたあと、吉祥寺で買い物。暖かなせいか、人でも多い。十七時三十分、帰宅。
 
 大西巨人『深淵』。事件の根っこに必ずかかわるものがある。――文学だ。
 
 
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十二月六日(月)
「新・二匹の恢復78」
 
 また冬に逆戻り。寒暖の差の激しさに、猫たちが付いていけないのではないかと少々心配になるが、どうやらそれは杞憂のようで心配すべきはむしろ猫より軟弱なニンゲンのほうだ。カミサンは鼻風邪が治らないらしい。ぼくは今朝の冷え込みで少々腰痛がぶりかえした。明け方、蒲団のなかで調子悪さを確かめていると、花子が「寒いからお蒲団にいれて」とせがんできたが、入れてやると五秒で出た。暑苦しいのか。それとも臭いのか。
 
 八時三十分、事務所へ。十一時、五反田のL社で打ちあわせ。すぐに帰社し、すこし作業してから十七時、水道橋のE社へ。十九時、戻ってまたまた作業。どうも集中できず。するとウィンドウズのノートPCからパキ、パキとプラスチックを折るような異音が聞こえはじめ、アプリケーションが動かなくなった。再起動もできなくなる。ハードディスクが昇天したらしい。保証期間が切れて一ヶ月という絶妙なタイミングである。
 
 二十一時過ぎ、帰宅。夜、麦次郎と外廊下を散歩する。
 
 頭が疲れたので今日は文学系の読書はしなかった。
 
 
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十二月七日(火)
「新・二匹の恢復79」
 
 七時起床。仕事が片づかないので早起きがつづいている。花子は早朝から大騒ぎするのが日課だからぼくの早起きにもしっかり付きあってくれるが、麦次郎は近ごろ睡眠時間が異様に長くなりつつあるカミサンとグースカねむりっぱなしである。カミサンも麦次も「サイボーグ009」のイワン・ウイスキーくらいよく眠る。
 
 八時三十分、事務所へ。昨日クラッシュしたウィンドウズのノートPCの修理を依頼する。重要な書類はすべてファイルサーバに置いてあるから業務上支障はないが、メールチェックはすべてウィンドウズで行っていたので、修理中にMacでメールを使うとなると、メールアドレスをいちいち入力しなければならないのが手間だ。修理費用がおよそ四万円というのもイタイ。
 西武信用金庫から電話。引き落としがされていないと言われ、慌てて入金しに行く。
 G社企画など。十三時、水道橋のE社で打ちあわせ。L社のTさんにスタバで珈琲をおごってもらった。ごちそうさま。
 どうも集中できない一日。まあ、こんな日もあるもんだ。明日は気合を入れよう。二十時、帰宅。
 
 
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十二月八日(水)
「新・二匹の恢復80」
 
 七時三十分起床。八時三十分、事務所へ。黙々とG社企画。
 
 帰宅後、花子と麦次郎をチラリと顔見せさせてみる。リビングのドアを少しだけ開け、そこからハーネスとリードを付けた花子の顔をのぞかせた。廊下の反対側、およそ四メートル先にはやはりリードをつけた麦次郎がいる。おたがい存在に気づき、ちらちらと覗き込みながら様子を窺っている。腰を低くして落ち着きのない様子だが、どちらにも敵意はなく、警戒しているというよりは、たんに緊張しているようだ。このご対面をおたがい「もうそろそろかな」と考えていたに違いない。はやく仲直りしたい、という気持ちが日々増しているのは二匹の態度からよくわかる。だが、その気持ちに闘争本能が勝ってしまう状況がいちばんこわいのだ。
 
 今日も読書できず。うーん…。
 
 
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十二月九日(木)
「新・二匹の恢復81」
 
 七時二十分起床。今朝は冷え込みが厳しいようだ。冬らしい寒さについ安堵してしまうのは、やはり温暖化への心配があるからか。季節が乱れることに違和と不安を感じる人が増えれば、温暖化は自然と緩和されるのかもしれない。
 夕べの接触でとくに猫たちの様子が変わったということはない。朝起きたときに見た限りでは、花子はいつもとおなじように起き、外を覗き、ゴハンをねだり、シッコしている。麦次郎はグースカ眠ったままだ。しかしあとで聞いたのだが、麦次郎は昼間なにかにおびえるような態度を見せたようだ。ぼくらが帰宅した今は、そんな様子はまったくないのだから、ご対面とは別の原因でビクビクしたのかもしれない。
 
 八時四十分、事務所へ。G社企画、E社企画。十五時三十分より、五反田のQ社で打ちあわせ。帰社後もE社企画など。
 MacでCLIE UX50を同期させるために、専用ソフトをネットで購入した。少々痛い出費。
 
 二十二時帰宅。昨日より若干長く、そしてもう少しお互いがよく見える形で二匹を会わせてみる。ちらちらと様子を窺おうとする麦次に、花子がウーと唸りはじめたので慌てて中断した。前回の喧嘩のときも最初は唸ることが多かったので、おそらくは不安を隠そうとしているだけだろう。やがて慣れるとは思うが、不安が今爆発されては困る。慎重に進めようと思う。
 
 田中小実昌『エッセイ・コレクション2 旅』。メキシコの紀行文で、実は哲学的なコミさんの一面がよく出ている文章を見つけた。ちょっと引用。街で小さな男の子に英語で話しかけると、そのうちひとりの男の子がぱっと走り出し、他の男の子といっしょに戻ってきたシーンのあとにつづく。
   ■ ■ ■
 そして、その男の子が、おなじ歳ごろの(六、七歳か)英語が話せる男の子を呼びにいったことが、あとになってわかったから、ぱっとはしりだしなどと、書くのだが、そのあたりにウソがからみやすい。たいてい、はじめにものごとの意味がきまり、その意味から、具体的なことを書いていく。しかし、具体的なことと意味とは、まるでちがう。意味は、大ざっぱに言うと、それこそ、どうとでもとれる。
 意味はいろいろとれても、具体的な事実はひとつだけで、かわらない、なんて甘いことは、ぼくはおもわない。意味によって、具体的なことも、あれこれかわってくる。ホントに具体的なことなど(ほんとになんて言葉が、またウソっぽくなるが)今のこの瞬間にしかない。たとえば、裁判であつかわれる被告がおこなった行為、犯罪の事実みたいなことも、じつは、法廷、あるいは警察、検察などで再構成されたものにすぎない。ぼくは裁判や検察のわる口を言っているのではない。しかし、それが再構成されたものならば、それこそ事実なのだ。そして、なにかを構成するときには、かならず、ある目的とまでは言わないが、意味から出発する。なんにもなしには、構成はできない。そして、くりかえすが、意味から事実が再構成され、それが、事実になってしまう。
 
 
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十二月十日(金)
「新・二匹の恢復82」
 
 七時起床。忙しいせいか、朝起きること自体が不機嫌な行為に思えてしまい、ついついふて寝を決め込みたくなるが、そんなことが許されるほど有限会社スタジオ・キャットキックは甘い会社ではないし、無論キャットキックと取引する企業も甘ちゃんではない。ここでしぶしぶ起きるか、よっしゃと声を張り上げながら起きるかによって一日の雰囲気はどうやらガラリと変わるようであるが、こういうのを自己暗示というのだろうか。最近は仕事を楽しめない。コピーほど効率がよくなくギャラも高くない企画系の仕事がつづいていたせいもあるのだが、なによりも疲れていることがいちばん大きい。そして猫たちの不仲も多分に影響している。二匹にとって今こそが一番重要な時期であり、ここで恢復のためのプログラムを手抜きするわけには行かない。猫のためを考えると、二十二時以降の残業はどうしてもできない。早起きして早朝から仕事をこなすしかない。しかし身体はいうことを聞かない。でも花子は陽も昇らぬうちからぼくを起こす。二度寝しても、熟睡できない。
 
 八時二十分、事務所へ。とにかく今日は仕事を楽しめるようにしよう、と誓いながらスケジュールを確認する。
 午前中はE社ホームページ。十時、吉祥寺のみずほ銀行で事務手続き。帰社後、ひきつづきE社ホームページ。夕方からはT社会社案内。
 カミサンのMacも不調。思いきってこちらも買い替えることにする。「アップルストア」にiMacを発注。
 
 二十時帰宅。豚汁を食べる。
 
 夜、花子がみょうにイライラしはじめる。どうやらリビングに行きたくてたまらないのに我慢しなければならなかったのがはげしいストレスになってしまったらしい。ドア越しに麦次の気配を感じるとシャーと威嚇する。麦次はいたって平静なのだが、これでは喧嘩再発になりかねない。今日はご対面を見送ることにする。
 猫たちの関係がうまくいかないと、ぼくら夫婦までぎくしゃくしてくる。カミサンの言葉は荒くなり、ぼくはそれに敏感に反応し、そんな口をきくなと責め立ててしまう。こうしたやりとりにも猫たちは敏感だ。花子の不機嫌はぼくらが増幅させてしまったのかもしれない。
 
 大西巨人『深淵』。そうだよなあ。やっぱりチェーホフはすげえよなあ。そういえば、今年は没後百年だったかな。
 
 
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十二月十一日(土)
「新・二匹の恢復83」
 
 八時起床。小春日和とはおおげさであるが、澄んだ空に光がゆっくり広がっていくような天気は自然な心地よさで、緩やかな朝寝を誘い込む。が今日も働かねばならぬ。朝寝の魅力を振りきりながら八時起床。
 台所で朝食――といっても冷凍の青汁を解凍し、湯を沸かして即席スープをつくるだけ――を準備するぼくの足元で花子は今朝も自己主張をはじめる。フニャンフニャンとやわらかく、しかししつこく鳴いては米びつの上などにひょいと飛び乗り、そのままぼくに飛びかかってきて肩に乗り、ごろごろと喉をならしながら二、三度体勢を整えたかと思えば、ぼくを踏み台にして冷蔵庫の上に乗り、食器棚との間を何度も往復する。ここに麦次郎がいたら、いったいどんな状況になるのか。数カ月前なら想像するのは易しかったが、家庭内別居中の今はなかなかイメージしにくい。
 
 九時、事務所へ。E社企画、E社DMなど。
 十三時ごろ、気晴らしに駅の反対側まで歩いてみる。「今野書店」で、けらえいこ『あたしんち』10巻、『群像』一月号、矢上裕『自力整体脱力法』、古井由吉『ひととせの』を購入。つづいてパン屋「アンセン」にまわり、食パン一斤と菓子パンふたつを購入。昼食は食パン一気食いにした。何枚か食べようと思ったら、やめられなくなってしまったのだ。それくらいアンセンのパンには魅力がある。
 
 二十時、店じまい。
 
 夜、花麦を対面させる。昨夜は花子がやや攻撃的な態度を取ったのが気掛かりだったが、今日は腰が引けるのか、麦次の顔を見た途端に後ずさってしまった。姿は見合える仲になれたが、完全な関係修復にはまだまだ時間が必要である。
 
 大西巨人『深淵』。アリバイ崩しはすこしずつ、しかし確実に進められている。
 
 
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十二月十二日(日)
「新・二匹の恢復84」
 
 九時起床。昨日の冬の晴れ空は嘘のように鉛色の雲に追いやられてしまった。最高気温は十度を切るらしい。しかし寒くてもわが家の動物は動じない。元気いっぱいである。鳴いたり走ったりわがままを言ったり、おのおの勝手に自分が元気であることを主張しつづけている。
 
 午後より「猫ヶ島」のしまちゃんが遊びに来る。「欧風料理 華」でランチ。エビのスパゲティ。塩味のシンプルな味付けだが、ニンニクやスパイスをふんだんに使っているようで、味わいは意外に濃厚である。
 食後はしまちゃんの得意技である退行催眠の体験会。詳細は恥ずかしくてとてもここには書けないが、これは一種の魂の浄化ではないか。そんなことを思った。
 夜はしまちゃんと三人で「さい炉」で夕食。薩摩揚げ、白魚のかき揚げ、揚げ茄子のとろろかけなど。二十時、おひらき。
 帰りがけに建設中のマンションの前の路上で二〇〇〇円拾った。どちらのお札ももっこり頭の野口英世だ。現金を拾うなんて何年ぶりだろうか。こんな小額では落とし主も現れまい。そのまま持って帰って、次の日にコンビニの募金箱にでも入れてしまおうかと考えたが、なんだか落ちていたお金を持っているということが気持ち悪く感じてしまったので、駅まで戻って交番に届けてしまった。面倒なのでお礼の権利は放棄した。
「どんぐり舎」で珈琲を飲んでから帰宅。
 
 二十一時、帰宅。
 
 漱石「私の個人主義」。講演内容の文章化である。
 大西巨人『深淵』。冤罪事件の解決=アリバイ崩しの実現。そして、記憶喪失中の結婚という問題。喪失前の妻と、喪失後に別人として結婚した妻。
 
 
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十二月十三日(月)
「新・二匹の恢復85」
 
 七時起床。どんどん睡眠時間が短くなってゆく。しかしそのぶん眠りそのものはどうやら深くなっているようで、おそらくは五時ごろからゴハンちょーだいと大騒ぎしたであろう花子の言動にまるで気づかず、六時過ぎまで夢の中にいた。確かに夢を見ていた。夢は眠りの浅いときに見るというが、だとすれば花子の大騒ぎがぼくの眠りを深い場所から引きずりあげてしまったのか、それともより深い意識に沈み、人知のおよばぬところで夢を見ていたのか。
 見させられていた、という言葉がふと浮かび上がる。そうだとすれば、何がぼくに夢を見させていたのだろうか。いや、それ以前にぼくはどんな夢を見ていたというのか。思い出せない。花子にゴハンを与えたときは、夢の内容を頭の中で反復しつづけていたと思う。だが再び床に戻っても同じ夢の世界には決して辿れない。よい夢はつづきを見たいものだという人がいるが、勝手なもんだとつくづく思う。二度寝の眠りこそが深く、しずかだったような気もする。七時、目覚まし時計が鳴る時間、花子はぼくの腕の上にちょいと顎だけを軽く載せて、じっと動かずにこちらの様子を窺っていた。
 
 八時三十分、事務所へ。E社企画、E社PR誌など。十七時、小石川のL社へ。まだほんのりと橙色の陽の光が残っている冬の夕空に、黒々とした桜並木の梢が毛細血管のように複雑に絡み合いながら伸びている。遠くに行くほど、密度が高くなるかのように重なりが増していく。その重なる梢は、遠くから見るとうっすら桜色を帯びているように見える。つぼみまどまだないはずだ。だとしたら、ほんのりと空にまでにじむようなピンクの正体は何だろうか。
 打ちあわせ中、L社のNさんに「今日の撮影の小道具あげる。食べて」と、いただきものをしてしまった。これがお菓子などならよいのだが、プチトマトを渡すとはどういうわけだろう。打ちあわせ中に喰てリコピンを摂取せよというのだろうか。ポケットに入れて迂闊に潰したら惨事である。打ちあわせ終了後、右手に軽く握ったまま退出し、家路を急ぐ人の多い小石川の街の中で、歩きながらトマトをほおばった。
 十九時、麻布十番のO社へ。筆記具メーカーT社カタログの打ちあわせ。夜のデザイン会社は活気に溢れている。居酒屋のざわめきに少し似ているかな、と思った。
 
 二十一時帰宅。
 花子と麦次郎を廊下で引きあわせる。少しずつ、一日十センチでもよいからおたがいの距離が縮まれば、そんな思いでここ数日つづけているが、今日はたがいが一メートルまで近づけた。敵とは見なしていないようだが、「うざい」とか「じゃま」とか、そんな感情がまだ心のどこかにあるのかもしれない。それさえ解きほぐせれば、二匹は必ずいっしょに暮らせる。
 
 大西巨人『深淵』。同時にふたりの女性を愛してもいいのか。その愛の背後には、記憶喪失が生み出したふたつの異なる人生と異なる人格が存在する。生の根源的問題。
 
 
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十二月十四日(火)
「新・二匹の恢復86」
 
 もたれている。といえば胃袋のことだが、全身がもたれているように感じるのはなぜか。東洋医学では気の流れが狂うと病を引き起こすというが、要するに今朝のぼくは気の流れがどこかで、いや全身あちこちでもたれているのだ。身支度をしているあいだもしばらくはもたれた感覚に悩まされたが、一歩外に出ると冷たい外気が身体中を引き締めてくれた。
 
 花子は今朝も元気。麦次とは会っていない。出かけるときには、まだ寝ていた。
 
 八時三十分、事務所へ。T社カタログなど。
夕方、O社のDさんとウチの事務所で打ちあわせ。
 ハードディスクがクラッシュし、修理に出していたパソコンが戻ってきた。四万円の出費。夜、少しだけセットアップ。ソフトの再インストールは数日かかりそうだ。
 
 二十時、店じまい。
 
 花麦、今日は三十センチのところまで急接近。十分ほど会わせてみたが、麦次郎が猫トイレの上に乗ってしまい、花子を見下ろす形になってしまったのが悪かったのか、険悪になりかけたので慌てて引き離す。
 
 大西巨人『深淵』。文学的である、というよりは文芸批評的であるというべきか。それとも文学者的であるというべきか。少なくとも、「生の根源的問題」とやらと正面から取り組もうとする主人公とその妻の会話は、ふつうの夫婦がかわすような内容じゃない。うーん、リアリズムって、なんなんだろう。
 
 
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十二月十五日(水)
「新・二匹の恢復87」
 
 七時三十分起床。東向きに窓があるリビングに接した和室の、ふすまを開けたままで蒲団を敷いているものだから、陽が昇ればカーテン越しではあるが、すぐに部屋は明るくなる。これが百台の目覚まし時計よりよほどしゃっきりと目を覚ましてくれるのだが、曇天の日となるとそうもいかない。起き上がれない。起きてもどことなく眠い。もう少し寝たい。そんな気分で起き上がってみると、花子がなぜか見当らなかった。何度か呼ぶ。はーにゃん、はーにゃーん。繰り返してみる。どこにいるんだー、おはよーさーん。幾度となく言葉を重ねてみる。だがやはり姿は見えない。射さぬ朝陽に焦がれてカーテンの内側で外でも見つめているのか、と窓を開け放ってみるが、やはり花子は見当らない。おかしい。うっかりどこか別の部屋に閉じこめてしまったか。心当たりのある場所の扉やら蓋やら引きだしやらをひとつひとつ開けてみなければいけないかと思い、さてそれではどこから見るべきかと思案しはじめたら、なぜか足元に花子がいた。どこに隠れていたのか。まるで見当がつかない。
 
 八時三十分、事務所へ。G社企画、E社ウェブサイトなど。
 十四時、五反田のL社で打ちあわせ。長引いてしまい、カイロの予約をキャンセル。
 
 二十一時、店じまい。「ぼん・しいく」で夕食を摂ってから帰宅。二十二時。
 
 夜、花麦を二度対面させてみる。帰宅直後と、ぼくが入浴してから。花子はちょっとだけ身体をこわばらせていた。緊張しているらしい。
 
 大西巨人『深淵』。三度目の記憶喪失? 予定調和というべきか、いや、予定不調和かな。明日には読み終わりそう。かつてないスローペースだな。
 
 
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十二月十六日(木)
「新・二匹の恢復88」
 
 七時起床。朝は花子とだけ触れ合うことになる。麦次郎は以前にも増して朝寝坊になった。別々に朝を迎えるということは、別々の生活のリズムが生じるということらしい。
 
 八時三十分、事務所へ。E社ホームページ、E社企画など。夕方、ちらりとカイロプラクティック。治療室の入っているビルの踊り場から、西の空にまだらに浮かぶ雲が、夕陽を浴びてまだらに光るのを少し眺めた。
 
 二十二時、店じまい。花麦は夜に十分くらいだけ対面させた。
 
 大西巨人『深淵』。主人公は行方不明のまま、物語はラストを迎える。
 
 
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十二月十七日(金)
「新・二匹の恢復89」
 
 ストレッチを終え、日記も書き終わり、パソコンの電源を落とし、さて寝るか、とパジャマの上に羽織っていたフリースを脱ぎながら和室に敷いておいた蒲団にもぐり込もうとすると、花子は羽毛が形作ったふっくらとした山と山の間で丸くなっている。ここ数日は、そんな様子を楽しんでから眠りにつくことが多い。その愛らしい姿が効いているのか、はたまたストレッチが促しているのかはわからないが、眠りが深くなっているのは確かだ。しかし、朝はすっきりと起きれない。不機嫌になるので目覚ましにはあまり頼りたくないのだが、近ごろは「いっしょに寝よう。先に寝ているから」とぼくが寝るのを待っているくせに、起きるときはなぜかどこにいるのかわからないから、花子に目覚まし代わりになってもらうことができない。七時起床。
 
 八時三十分、事務所へ。ピュウと高い音をたてながら冬の風が吹き荒れている。気温はさほど低いわけではないのだろうが、風は体感温度を下げる効果があるから、ついついポケットに手を突っ込み、背中を丸め、身を屈めながら歩いてしまう。そろそろ手袋が必要かもしれない。
 
 E社企画にひたすら終始。
 十九時、吉祥寺の「ラオックス」でOA用品数点を購入。ネパール料理店「ナマステカトマンズ」で食事。毎週金曜の夜はミニライブをやるようで、ちょうど食事が終わったあたりから、ネパール人の店員三名が演奏をはじめた。ひとりは手押し式のコンパクトなオルガン――アコーディオンなのかもしれない――を弾きながら母国の歌をうたい、ひとりは日本の鼓を横にぐっと伸ばしたようなかたちの太鼓で巧みにリズムをきざみ、ぼくら夫婦のことをよく覚えてくれているネパール人のおばちゃんはタンバリンでそこに華やかさを添えている。二曲終わると、そのおばちゃんは現地で流行っているらしいポップスをバックに、狂ったように踊りはじめた。小柄だが中年太りでコロコロした身体が、狭い店内の中でゴム鞠のように弾んだり転がったりを繰り返す。途中入店してきた他の客は、転がる鞠になったおばちゃんの姿を見て入り口でカチンと固まっていた。動と静のコントラスト。
 
 二十一時三十分、帰宅。花麦、今日もご対面。二十分以上いっしょにしていただろうか。花子はリラックスしているが、麦次郎は少々緊張気味だ。花子が挨拶をしようと近寄ったところ、麦次は驚いたのか、ふにゃふにゃと文句を言い出したので花子がそれに対しキレかけてしまう。寸前で二匹を引き離し、ご対面終了にする。別の部屋に連れてゆくと、二匹とも先ほどの爆発寸前状態などもう忘れたといわんばかりの、感心するほどの平常心。もう少し丹念にご対面をつづければ、完全恢復ももうすぐできるはずだ。
 
 大西巨人『深淵』読了。ラストはチェーホフ『犬を連れた奥さん』の引用。様々な文学作品を引用しながら、推理小説的な構成の中で記憶喪失や冤罪といった問題を考察してゆく手法は真似できないほどユニーク。だが、そこまでなんだよなあ。おもしろかったんだけど、文学的知識がないニンゲンにはまったく読めない代物。
 帯には「人生観、社会観、世界観ないし現実認識、大西文学の現到達点」とある。確かに、それらはいわゆる自己啓発本などとはまったく異なる次元で、膨大な量の言葉をついやして綴られている。しかし、主人公の失踪あるいは行方不明――ひょっとすると三度目の記憶喪失――というラストは、六百ページ近くを費やして語られた「人生観、社会観、世界観ないし現実認識」とやらのすべてを否定しようとすることで、あらたな「人生観、社会観、世界観ないし現実認識」を生み出そうという試みを示唆しているのではないか。著者の狙いはわからない。ラストに引用されたチェーホフから、それを読み取ることができるのかどうか。
   ■ ■ ■
 崎村の話が、終わっても、しばらくは、三人の誰も、何も言わなかった。やがて、双葉子が、代表するように、「お話は、たいそう有益に拝聴しました。それを原にして、よく考えようと思います。」と言った。琴絵も橋本も、同意のうなずきを示した。
 そのあと、またしばらく、四人は、だまった。宝満湾の縮緬波が、淡々しい冬日を受けていた。四人全部が、布満と『犬を連れた奥さん』とのことを知っていて、もともとチェーホフの愛読者でもあった。短い沈黙の間、四人のおのおのが、『犬を連れた奥さん』の一節を切実に思い浮かべたのかもしれない。
 
「どうすれば? どうすれば?」彼は、頭を抱えて、答えを追い求めた、「どうすれば?」
 すると、まるで、もうほんのしばらくのちには、解決の方途が、見つかり、そこにそのとき、新しくて素晴らしい人生が、始まるかのように幻想せられた。それでいて、その実、前途は、なお遼遠であり、最も複雑にして困難な道程は、ようやく、たったいま始まりつつある、ということが、二人に判然とわかるのであった。
 
 
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十二月十八日(土)
「新・二匹の恢復90」
 
 七時、胸の上に載る花子の重みで目が覚める。身体を起こそうとするが、花子の体重すらズシリと感じるくらいに疲れているように思え、ああ今日はホントは休日出勤なのだけれど、思いきってお休みにして明日日曜日に働けばいいか、という思いが頭をよぎったが、おしっこしたら疲れが消えた。
 貴乃花が現役のころにお兄ちゃんとケンカしたことがあった。原因はそのころ貴乃花が指導を受けていた整体師の発言や思想にあったらしいが――詳しくは知らない――、たしかその整体師――そもそも整体師だったかも定かではない――が、「おしっことウンコは出せるだけ出したほうがよい」と言っていたのをふと思い出す。その整体師は変人らしいが、この言葉はおそらく正しいと思う。栄養を摂取しつくした後の食物の残りカスや体内に溜まった老廃物は、とっとと排出したほうがいいに決まってる。台所だって、料理した後の切りくずや食べごろを過ぎ古くなってしまった食材は、とっとと捨てたほうが快適になる――もっとも、食材を食べずに捨てるのには罪悪感があるが。それはまた別問題――。ぼくもどうやら疲れとやらをおしっこと一緒に排泄してしまったらしい。
 
 九時、事務所へ。いつも通る西荻中央病院の前の道は使わずに、線路を挟んで一筋南側の商店街のある道を歩く。いつも柴犬系の雑種らしい白くてちょっとジジイにさしかかった年齢らしい犬ッコロがつながれている石屋さんがある。そこの敷地内に、高さ四、五メートルはあるだろうか、めったにお目にかかれぬほど立派な柿の木がある。子供の頃はよく空き地に生えた柿の木に登っては落ち、親に「柿の木から落ちてできたけがは一生治らないんだから登っちゃダメ」と言われつづけた。覚えていないが、おそらくぼくは柿の木から落ちて頭をしたたか打ったのだろう。おかげで今でも大馬鹿だ。と、話が逸れた。石屋の柿の木の話だった。これが、葉は先に紅葉し落ちきっているのだが、橙色に輝く柿の実だけが、まだ七、八個しぶとく残っているのだ。冬枯れした木に残る実が、なぜかクリスマスツリーの飾りのように思えてしまった。しかし柿の木がツリーではどうもさまにならない。
 G社企画を延々と。
 十三時、息抜きに北側のパンの名店「アンセン」へ。バケットとチョコパンを購入する。バケットを一気食いしてしまった。
 十九時、店じまい。
 
 帰宅後、花麦を会わせるがどうも今ひとつ肝心な一線がなかなか越えられない。花子が近寄れば麦次があとづさる。麦次が近寄れば花子はシャーと威嚇する。お互い、仲を戻したい気持ちは強いようなのだが、警戒心が働いてしまうらしいのだ。警戒する必要がないことを悟らせるまでは、根気強くこれをつづけなければ。
 
 保坂和志『もうひとつの季節』を読みはじめる。じつにリラックスした書き出し。保坂の作品は、軽くて日常的だけれど、じつはとんでもなく重たい哲学的なテーマを抱え込んでいる。そこが好きなんだよなあ。
   ■ ■ ■
 朝いつものとおり息子の圭太が襖で隔てた隣の部屋でレールに汽車を走らせている音で目を覚まして、
「おはよう」
 と、声を掛けながら襖を大きく開けると、息子はレールのそばではなくて縁側にいて、三枚並べた座布団めがけてデングリ返りをしようと身構えていたところで、ちょっと顔を上げてこっちを見て、
「あ、パパ。
 やるから見てて」
 と言って前回りしたのだけれど、カエルが飛びはねたときのように両足がバラバラに広がっているから、回転の途中でからだが傾いて、サッシの引き戸に軽くぶつかった。
 
 
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十二月十九日(日)
「新・二匹の恢復91」
 
 カーテンを透かす冬の朝陽と、例によって花子が載る胸の重みとで目が覚め、そういえば夕べは目覚ましをセットしなかった、目が覚めるまで寝ようと思ったのだっけと思い出しながら、ゆっくり身体を起こして頭のてっぺんから二十センチくらい先に置いてあったデジタル形式の目指し時計を見てみたら、まだ八時なので少々損した気分になった。完全休養の日なのだから、何も働く日とおなじような時間帯に目覚める必要はあるまい。眠れるだけ眠っておけ。疲れを癒せ。リフレッシュして、来週からの仕事に備えろ。そんな考えが前日の夜にはあったわけだが――無論これを強く考えていたわけではなく、ただ漠と休前日だから、といった程度に軽く、浅く思っただけだ――、八時に目が覚めたということは、朝陽や花子の重みがあったにせよ、身体はこれ以上の睡眠は不要と判断したということなのだから、二度寝、三度寝を決め込む必要もない。それじゃ、起きよう。というわけで起きたのだが、起きるまでにずいぶんグズグズしてしまったらしく、洗顔したあとに時計を見たら八時三十分を回っていた。
 
 午後より外出。池袋のサンシャインで開かれている「ミネラルショー」を見物に行く。全国、もとい世界中から珍しい石や鉱物を売る業者が集まって開く展示即売会のようなものだ。でかい恐竜の骨の化石に圧倒され、水晶のクラスター原石が四方八方に鋭く伸びてゆくさまに見とれ、つるつるに磨かれた石の透明度の高さや色彩の豊かさに心魅かれた。でっかいクラック入りのレインボークリスタルのファントム――原石の先端を塔上にして磨いたもの、でいいのかな説明は――をひとつ自宅用に購入。カミサンは事務所の机の上に置くんだと言って、針水晶のファントムをひとつ買った。ぼくはほんのクラックがはいった水晶の丸玉をひとつ。クラックは面状にうっすらと入っていて、それがなんだか宇宙に散らばる星の地図のように見えて気に入ったのだ。
 
 夕食は挽肉、レタス、マッシュルームのカレー風味中華スープと、厚揚げの中華風ニラソースがけ。ひさびさに料理した。
 
 花麦、今日も昨日と態度は同じ。根気との勝負になってきた。継続は、力なり。
 
 
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十二月二十日(月)
「新・二匹の恢復92」
 
 六時五十分起床。朝だというのに陽の光などまるで感じられない外の暗さに驚くが、雲の厚さに加え冬至が近く、ひょっとするとまだ日の出前まのかもしれぬことを考えれば納得できなくもない。花子に起こされた。
 
 八時二十分、事務所へ。G社企画、T社パンフレットなど。午後、髪を切りに「Rosso」へ。二ヶ月ぶりに時間をつくることができた。
 二十時、帰宅。
 
 花麦ご対面はつづく。花子、麦次郎の尻の匂いを嗅いだら激しく怒った。だが怒りがつづかないから大丈夫だろう。時間が経てば、慣れるはずだ。
 
 保坂和志『もうひとつの季節』。散歩の中での思索。なんて書くと、カントみたいだな。
 
 
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十二月二十一日(火)
「新・二匹の恢復93」
 
 七時起床。冬至である。朝が来るのが遅いせいか、花子の「ごはんちょうだい」も少しずつ遅れているようだ。今朝は五時二十分ごろ。日の出前であることは変わりないが、四時台が多かった夏場に比べれば、ここ数日花子はうかつに寝過ごしてばかりだと言える。いや、それともたんにぼくが起こしつづける花子を無意識に無視して眠りこけているだけの話なのか。真実はわからない。知っているのは花子だけだ。もっとも、わからなくてもさほど困らない真実ではある。花子は「こまるよ」と言いたげだけれど、四時から起こしているのか五時からなのかは知りたくないのだ。知ってしまったら、ぼくは毎朝その時間に目覚ましをセットするようになってしまうかもしれない。これは猫を大事にしているのではない。過保護であり、親馬鹿だ。だから花子よ、朝はもう少しぼくをほったらかしておいてくれ。
 一方、麦次郎はほったらかしでも毎朝ぐーすかと眠りつづけているようだ。単純に睡眠時間が花子より長いようであるが、ひょっとすると花子のほうが神経質で食いしん坊という性格の違いが、睡眠の取り方にも現れているのかもしれない。ちょっとでも不満や欲求があれば、すぐに起きてニンゲンに訴える。これが花子。麦次は、欲求はストレートに――ときには花子より大胆に――伝えてくるが、不満は自分で押さえ込んでしまうときがあるようなのだ。ストレスの発散方法も下手みたいで、ぼくら夫婦が忙しくなってちょっと帰りが遅い日がつづいたりすると、たちまち膝のあたりに舐めハゲをつくってしまう。思いつめてしまうタイプでもあるのだろう。
 猫はみな個性をもっている。理解しなければ、生活をともにすることはできない。どれくらい相手を理解してあげられるか。この問題に真剣に取り組めば、きっと今の不仲状態もすぐに解決できると思うのだが……。だが、ゴールはかなり見えてきた。
 
 八時三十分、事務所へ。メールチェックをしてから横浜は桜木町のランドマークタワーへ。某IT企業を取材する。某風水師がオフィスインテリアのコーディネートを担当したらしい。撮影のときに、西側の真っ赤な壁面の前に置かれた真っ赤な椅子を動かそうとしたら、それは意味があるからダメと言われた。
 十七時三十分、帰社。D社PR誌など。二十一時、店じまい。「喬家柵」で夕食。 
 
 今日も小一時間ほど花麦を会わせてみる。やはり花子は今日も近寄る麦次郎を見てウーとうなり声を上げてしまった。麦次に敵対心がないことを理解させるには、もう少し時間が必要なようだ。
 
 保坂和志『もうひとつの季節』。子どもと猫の描写が秀逸。
 
 
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十二月二十二日(水)
「新・二匹の恢復94」
 
 六時四十分起床。花子にゴハンを催促されなかったので、二度寝をせずにすぐ身支度をはじめる。明け方に起こされなくなったのは、眠りが深くなったからか、花子が寝ぼすけになったからか。
 
 八時二十分、事務所へ。朝型になってしまったなあ、と感じながら仕事、仕事、仕事。
 十二時、小石川のL社で新規案件の打ちあわせ。十四時、帰社。バケット一気食いの昼食を済ませてから、E社企画など。二十時、店じまい。
 
 今夜も花麦を会わせてみる。リラックスしていたが、麦次郎が花子の眼の前でウンコしたら緊張が走った。花子が麦次をシャーと威嚇。慌てて引き離したが、二人ともさほど気にしていないようだ。
 
 夜、『新ゲッターロボ』第六巻を見る。『虚無戦記』になってしまった。果てしない、先の見えない「さあ、行くぞ!」で終幕。
 
 保坂和志『もうひとつの季節』。哲学と日常がねじれながら綴られてゆく。
 伊井直行「ぼくの首くくりおじさん」を読む。読了。表面的には希薄でも、心のどこかに深く切り刻まれるような関係。まったく違う生き方をしているのに、なぜか魅かれ、影響され、ほんのすこしだけ後を追うようにしてしまう――叔父と甥とは、そんな関係が里像なのかもしれない。
 
 
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十二月二十三日(木)
「新・二匹の恢復95」

六時四十分起床。今朝も花子に起こされず。

八時、事務所へ。E社企画、G社企画など。
昼間にちょいと気晴らしに吉祥寺へ。中古CD店「Rare」で、聴かなくなったCDを売る。聴かなくなった、というよりは音楽を聴く機会が減ったから売ったというのが正しい。紙袋にいっぱい売ったら二万円になった。
 
十八時、店じまい。
 
花子と麦次郎、今日は帰宅後からずっと引き合わせている。今この日記を書いている時点で二時間以上。二人とも怒ったり緊張したりすることもなく、あちこちでコロンと転げたりちんまりと丸まったりゴハンちょーだいとおねだりしたりをつづけている。
 
保坂『もうひとつの季節』。もうすこしで読了。
 
 
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十二月二十四日(金)
「新・二匹の恢復96/ぼくの恢復1」
 
 夜中に身体をギリギリと縛りつけられるような感覚で目が覚めた。喉が腫れているようだ。頭も痛い。頭痛持ちだが、いつもの頭痛とは痛み方が違う。両側から締めつけられ、振り回されているような感覚。体温を測ったら三十七度を大きく上回っていた。下ればいいな、と願いながら蒲団にもぐり直す。
 
 朝、目覚めると締めつけられる感覚はさらにひどくなっている。体温は三十八度三分。さてどうする。打ちあわせが二件ある。うち一件は簡易な内容とはいえプレゼンだ。仕方がないのでどちらも延期してもらうことに。しかし連絡を取るには一度会社に行かなければならない。身体に鞭打ち、いつもの倍以上の時間をかけて事務所に向かい、関係者に詫びのメールを入れる。追加作業を依頼されている案件もあった。仕方がない。朦朧としはじめていたが無理やり意識を集中させて作業をしてしまう。
 
 十時、病院へ。体調を崩している人が多いのだろうか。いつも以上に混雑している。コートも脱がずに腰掛けて順番を待っていたが、おそらく熱が急激に上がったのだろう、倒れてしまった。急にひどい吐き気と寒気に襲われ、横になりたい旨を受付に申し出たのは覚えているが、その後の記憶はちょっと曖昧だ。気づいたら奥の部屋に通され、そこで横にされていた。このときに計った体温が三十八度七分だったか、八分だったか。倒れたときはおそらく三十九度を越えていたのだろう。症状が落ち着いてから別の部屋に移され、そこで点滴を打った。ブドウ糖と抗生物質らしい。一時間半くらいかかったようだが、眠っていたのでよくわからない。処置後、処方せんをもらって病院を出た。薬局で処方してもらい、タクシーで帰宅。おかゆをすすってからはずっと眠った。
 
 夜、熱は三十七度台まで下った。関係が戻りつつある猫たちとリビングでゆっくり過ごす。
 
 
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十二月二十五日(土)
「新・二匹の恢復97/ぼくの恢復2」
 
 十時起床。熱はもう平熱に戻った。高熱と一緒に、身体中の毒素を放出してしまったような感じだ。朝風呂に入り、身を清める。
 しかし、熱で体力を奪われたようでまったく力が出ない。今日一日は大事を取って休養する。
 
 猫たちは昨日も今日も、喧嘩することもなく過ごしている。数日は、人がいるときは一緒に過ごさせ、出かけるときだけ部屋を分けてもう少し様子を見たい。
 
 保坂『もうひとつの季節』読了。『季節の記憶』の続編だが、猫の茶々丸の登場で若干物語としての構造が明確になったくらいで、さほど世界観も狙いも変わっていない。ただ、前作のラストでクイちゃんが図鑑の文章を暗唱するシーンのような、不思議な感動はなかったなあ。
 
 
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十二月二十六日(日)
「新・二匹の恢復98」
 
 七時二十分起床。喉の痛みも取れた。気分は晴れやかだ。Vの字に開いたぼくの足の真ん中で丸まって寝ている花子に「起きるよ」と一声かけ、一気にガバリと起き上がる。が高熱の後遺症とでも言おうか、腹筋がひどい筋肉痛で身体を持ち上げる瞬間にグラグラした。だがこんなもの、病気のうちにもケガのうちにも入らない。
 身支度をはじめると麦次郎が起きだしてきた。朝っぱらから顔を突き合わせて興奮状態にならぬよう、気を配りながら顔を洗ったり着替えたり。
 
 八時三十分、事務所へ。喉を痛めたのは湿度が足りなかったからではないかと反省し、午前中、ちょいと荻窪の西友までひとっ走り――といってもホントに走ったわけではない――、特価の加湿器を一台購入してから仕事をはじめる。E社企画、D社PR誌など。夕方、予定より早めに終わったので年賀状の文面を考えた。
 
 十九時、帰宅。夕食は焼き肉。花子がリビングで大騒ぎをはじめたので、食事中は書斎で待機してもらった。
 二匹ともマイペース過ぎて、どれくらい関係が恢復しているのかがわからない。完全でないのはわかるのだが、あとどれくらい、というのが今ひとつ見えないのだ。もちろん、見えないからといって焦ってはいない。
 
「M-1グランプリ」を少しだけ観る。アンタッチャブルは今さらこの番組に出る必要などないのではないか、と感じたのはぼくだけではないはずだ。笑い飯がパワーダウンしていたのにはがっかりした。
 
 チェーホフ/神西清訳『可愛い女/犬を連れた奥さん 他一編』より「犬を連れた奥さん」を読みはじめる。たしか今年は没後百年なのだが、その内容の現代性に改めて驚かされた。現代性というよりは、現代にも通用する普遍性と言うべきか。主人公グーロフが犬を連れた奥さん=アンナ・セルゲーヴナとオレアンダへ出かけるシーン。ここには時代背景も社会構造も文化も超越した、ひとつの人間と自然の関わりという真実だけがある。
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 オレアンダで二人は、教会からほど遠からぬベンチに腰掛けて、海を見下ろしながら黙っていた。ヤールタは朝霧をとおしてかすかに見え、山々の頂には白い雲がかかってじっと動かない。木々の葉はそよりともせず、朝蝉が鳴いていて、はるか下の方から聞こえてくる海の単調な鈍いざわめきが、我々人間の行手に待ち受けている安息、永遠の眠りを物語るのだった。はるか下のそのざわめきは、まだここにヤールタもオレアンダもなかった昔にも鳴り、今も鳴り、そして我々の亡いあとにも、やはり同じく無関心な鈍いざわめきを続けるのであろう。そしてこの今も昔も変わらぬ響、われわれ誰何の生き死にはなんの関心もないような響の中に、ひょっとしたらわれわれの永遠の救いのしるし、地上の生活の絶え間ない推移のしるし、完成への不断の歩みのしるしが、ひそみ隠れているのかも知れない。明けがたの光のなかでとても美しく見える若い女性と並んで腰をかけ、海や山や雲やひろびろとした大空やの、無限のようなたたずまいを眺めているうちに、いつか気持も安らかに恍惚となったグーロフは、こんなことを心に思うのだった――よくよく考えてみれば、究極のところこの世の一切はなんと美しいのだろう。人生の高尚な目的や、わが身の人間としての品位を忘れて、われわれが自分で考えたり為たりすること、それを除いたほかの一切は。
 
 
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十二月二十七日(月)
「新・二匹の恢復99」
 
 六時四十分起床。ここ数週間で、加速的に朝型人間になりつつある。もともと早起きはさほど苦と感じぬタイプではあったが、それにしても夜遅いことが当然の仕事をしていながら、このリズムは少々異常である。もっとも、自分が朝型を求めはじめているという事情もなくはない。アタマの中に濁りがすくない午前中のほうが冴えているのは当然だし、二匹の恢復のために、花子の生活のリズムにすこしでもあわせてあげる必要を感じてもいた。
 
 八時、事務所へ。早朝、足早に駅へと向かう人たちの顔が、先週と今週ではかなり違っている。クリスマスというイベントを終えることで、一時的に忘れていた緊張感が、瞳や額や頬のあたりに戻ってきたような印象だ。あと数日のりきれば、年が越せる。そんな思いはあいにく安堵はもたらさず、焦りをさらに煽り立てるようだ。そんな雰囲気には飲まれまい、飲まれまいと心がけるように、駅までは通勤の人々の緊張した顔を横目で、駅を抜けて事務所に着くまでは彼らの顔を通りすがるまで正面から見ながら一歩一歩、しっかり歩いた。
 
 朝から大慌てで銀行めぐりや事務処理。十一時、水道橋のE社でプレゼン。終了後、その足で五反田に向かいL社で打ちあわせ。年末の多忙ゆえか、異様な緊張感が事務所に張り詰めている。
 
「リスドオル・ミツ」のライ麦バケットで昼食を摂ってから――最近は「整食法」を実践しているので、昼食は炭水化物が中心、あるいは炭水化物しか摂らない――、ずっとさぼりつづけていた年賀状書きと記帳作業に専念する。二十時過ぎ、店じまい。
 
 満月のせいか、麦次郎が少し興奮気味。花子にちょっかいを出してはシャーと威嚇されている。もっとも花子は全然本気じゃない。ニンゲンの言葉にすれば「あんた、シツコイ」と煙たがっている程度だろう。
 
 チェーホフ「犬を連れた奥さん」。なんだか昼メロみたいになってきたな。
 
 
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十二月二十八日(火)
「新・二匹の恢復100」
 
 六時四十分起床。花子、めずらしくぼくの食事中に食べ物をねだらない。冷え込みが厳しくて食欲がにぶっているのだろうか。
 
 七時四十分、事務所へ。仕事納め。十五時ごろまで黙々とD社PR誌やT社カタログのコピーを書き、一段落したところで大掃除開始。資料や雑誌を大量に処分する。二十時、帰宅。「桂花飯店」で食事してから帰宅。
 
 夜は麦次郎を膝に乗せてテレビを見ながら過ごす。が、居眠りしてしまった。
 
 チェーホフ「犬を連れた奥さん」読了。まじめに人生の問題に向きあう、ロシア文学らしいラスト。
  
 
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十二月二十九日(水)
「新・二匹の恢復101」
 
 八時起床。初雪。だが事務所の大掃除をしなければならないので会社へ向かう。十五時ごろまで、狭い事務所の中にごちゃごちゃと置かれた荷物をちょこまかと動かしながら、掃除機で埃を吸い取り、ワックスを塗る。窓からはぼたん雪がせわしなく舞いつづけているのが見える。年の瀬は雪の振り方までせわしなくなるのか。
 十五時、ほぼ作業完了。夕方、ちらりとカミサンがふたり展を開いた「かりんとう」でミルクティー。十八時、事務所に戻りカミサンのiMacのセッティング作業。
 二十時、店じまい。これで今年のお仕事は終了。お疲れさまでした、ということで近所の居酒屋「黒長兵衛」で納会。ブリカマなど。あまりに大きいので、すこし猫たちのために持って帰った。ブリカマの脂が口の中に残っているような気がしたので、「モ・カッフェ」で珈琲を飲んでから帰った。
 
 猫たちの様子は昨日とそう変わらない。花子はブリを喜んで食べたが、麦次郎は興味ないからいらん、とのこと。
 
 チェーホフ「ヨーヌィチ」を読みはじめる。田舎医者が街の名士の娘に恋する話。
 
 
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十二月三十日(木)
「新・二匹の恢復102」
 
 八時起床。今日は自宅の大掃除。猫たちは家の中のただならぬ様子に少々興奮しているようなのでしばらく引き離しておいたのだが、リビングのドアを開けた隙に花子がスルリとドアを抜けてしまい、そのときにたまたま外から他所の家か野良か、外部の猫の声がしたので興奮してしまい、一触即発となってしまう。慌てて引き離したら、二匹ともすぐに落ち着くを取り戻した。夕方には「そんなこと、あったっけ?」というくらい落ち着いた雰囲気に戻ってくれたので安心した。
 
 十五時、カイロプラクティック。
 
 夜はビデオを観たりテレビを観たり、要するにずっとダラダラしていた。ホットカーペットの上で、麦次郎と並んで居眠りしてしまった。
 
 チェーホフ「ヨーヌィチ」読了。時間が経てば、人も変わる。人が変われば、恋心も変わる。その変化が人生にあまたの「すれちがい」を産み落とす。いわば、そのすれちがいのなかでも一番大きくよじれたもの。それがこの小説のテーマなのかな。
 
 
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十二月三十一日(金)
「新・二匹の恢復103」
 
 一年最後の日くらい何もせずにただひたすらぼーっとゴロゴロとだらだらとのらりくらりと過ごしてみたいものだが、そんな年末になったためしはもちろんただの一度もなくて、毎年ギリギリまで大掃除やら年賀状やらに追われる始末。だが今年は猫たちの精神状態を配慮して大掃除は中の大掃除くらいに留めて置くことにしたせいか、悲鳴をあげるほどの作業量ではない。ドカドカと箪笥やら本棚やらを動かして裏側を掃き、押し入れやクローゼットの中身を全部引き出してきれいに拭き上げるなんて作業は猫たちの興味を集めることになり、そして猫らに作業を邪魔され、きづけば尻尾をふんづけたりする。いつもの花子と麦次郎なら踏んづけてもゴメンで終わると思うが、そのときの悲鳴がヒステリーを引き起こし、それが不仲を三度呼び起こすかもしれぬ。それゆえ、大掃除も中の大くらいで妥協しておこうとついつい思ってしまうのだ。
 八時に起床し、もくもくと作業を続ける。一度花子を踏んづけてしまったが、そばに麦次がいなかったせいか、大事には至らず胸を撫で下ろした。十六時ごろには家の中がかなりさっぱり清められ、作業もほぼ終了。おちついて新年が来るのを待った。
 テレビは細木数子、たけしの超常現象、ナイナイの火焔ダルマ。格闘技にはあまり興味がない。
 チェーホフ「可愛い女」を読みはじめる。他者を愛し、貢献することでしか生きつづけられない悲しい女の話。うーん、二〇〇四年最後の本はチェーホフだったか。
 
 さまざまな出会いもあり、新しい世界や知らない世界に触れることも出来、仕事も少しずつだけれど着実に変化し、文学的な興味も広がったりと、今年は変化と拡大の一年だった。猫の不仲や父親のガン手術など大変なこともあったが、逆にそれらもまた自分を広げるいい契機となった。父親のガンについては、ぼくはもともと無信仰だけれど、はじめて「祈る」という行為の大切さを知ったように思う。来年も、他者のために祈れるような人間でありつづけられればと思う。他者は救えない。でも、祈ることくらいはできるから。
 

 
 

 
 
 
  
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。モー娘。熱が冷めてしまった。

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