「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞
二〇〇五年五月
 
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五月一日(日)
「適当」

 八時四十五分起床。厚い雲から透ける遅い朝の光では、今ひとつ身体がシャキリとしない。むにゃむにゃとした気分で起きあがり、掃除など。ほっとカーペットをようやくしまい込むことができた。

 ヒーラー/セラピストのゆうりさんからメール。六日に伺うことにした。
  
 午後は散歩。善福寺のほうまで歩き、「ムッシュソレイユ」で菓子パンを購入。そのまま、あの近辺のモデルルームなどを探索。帰りがけに女子大通りによさそうな不動産屋があるのを見つけ、何気なく入ってみたら先日税理士のNさんが「今度紹介します」と言っていた不動産屋だった。希望を伝え、物件を紹介してもらうことに。
 
 夕食は手作りハンバーグ。久しぶりにこねた。適当につくってみたが、けっこうイケる。
 
 奥泉『坊ちゃん忍者』。幕末の殺伐とした雰囲気のなかで、冷静かつ脳天気に観察をつづける松吉。
 
 
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五月二日(月)
「薫風」
 
 六時、起床。初夏ということばが似付かわしい空。三月、四月よりも青さに深みと強さを感じる。雲は白く、確かなかたちで浮いている。五月になると、風を感じる。ほかの月でも風なら吹くではないか、と反論されそうだが、薫風という言葉もあるように、五月の風には趣がある。気まぐれさがない。伸びやかで、それでいて意外に強く流れる。本来凧揚げは五月に行われるものであったとどこかで聞いたことがあるが、色濃く広がる五月の青空に、たくましげな風に煽られながら高く上がる凧の姿は、たしかに冬空よりも様になる。
 
 七時、事務所へ。Q社企画、T社カタログなど。天気のせいだろうか、テンションが高い。十六時三十分、Q社の件で小石川のL社へ。打ち合わせもハイテンションだ。もっとも、フーと奇声を上げ踊りながら打ち合わせしたわけではない。気合い充実、洞察力も直感も判断力も冴えている。
  
  二十一時、店じまい。「さい炉」で軽く夕食をとってから帰る。山菜天ぷら、桜エビかき揚げ、さやいんげんの鉄板焼き、焼きハマグリ。
  
 武田泰淳『身心快楽』。泰淳先生が戦争体験から受け取ったもの。それはヒューマニズム、人道主義などという安っぽい言葉を越えたところにある、人間のあるがままの姿を見つめる観察力と洞察力なのかもしれない。
 奥泉『坊ちゃん忍者』。夢のなかの京。って、おもいっきり平成の京都じゃん。
 
 
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五月三日(火)
「条件」
 
 八時、起床。憲法記念日であるが憲法のことなど考えずに掃除。改憲護憲と意見がぶつかりあっているようだが、平和主義をつらぬければ、それでいいのではないか。もっとも、それが最大の難問ではあるが。
 
 午後から事務所へ。途中、「おもちやさん」で柏餅を買う。Q社企画、T社カタログなど。仕事しているのがもったいないほど空は晴れ渡っている。だが、不思議と外に出ようとは思わなかった。昨日のテンションが高すぎたのだろう。
 夕方、茶をすすりながら柏餅を頬張っていると、変な音が聞こえてくる。音というよりは声のようだ。耳を澄ますと、どうやら猫のケンカの鳴き声らしい。
「こんなのが聞こえてくるマンションには住めないなあ」とカミサン。花子がすぐに反応してしまうからだ。静かな場所であること。それが引っ越しの絶対的な条件。
  
 二十時、店じまい。
 
 奥泉『坊ちゃん忍者』。だんだん奥泉お得意の推理小説風になってきた。
 
 
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五月四日(水)
「怠街」
 
 目覚ましをセットしなくとも、十分に眠れば自然と目は覚める。陽の昇り具合からまださほど遅くはないだろう、と時計を見ると六時を少々回ったところだ。いつもの時間に起きてしまうのは、習慣の一言で片付くと言えば片付くが、やはり書斎でひとり休んでいる花子のことが気になるのだろう。小便をし、その分を補うつもりで、というわけではないが水を一杯飲んでから猫缶を開け、書斎の花子にそっと与える。さみんぼうになっていたようで、ふにゃふにゃと落ち着かない。そのまま八時まで一緒にいてやった。じつは二度寝していただけなのだが。
 
 十時三十分、事務所へ。いつもより三時間少々遅れての出勤ということになるが、これだけ時間が経つと陽の光とはこれほど力強くなるものかとあらためて驚く。陰が色濃くアスファルトに映る。若葉の照り返しも、いつもよりまぶしい。
 Q社企画、T社カタログ、事務処理など。
 十四時三十分、「ロッソ」で髪を切る。
 夕方から吉祥寺へ。人手の多さに圧倒されながら買い物を済ませる。西荻窪の街は人はまばらで閑散としている。西荻の商店街の連中は、土地柄なのか働くことが基本的に嫌いだからどこも臨時休業だ。よその街に住む西荻好きも、これほど天気のよい休日にカビ臭いアンティークを物色する気にはさすがになれないと見れる。西荻窪に初夏は今ひとつ似合わない。桜と枯葉は似合うんだけどなあ。
 
 十九時、帰宅。久しぶりに「銭形金太郎」を観る。
 
 武田泰淳『身心快楽』。中国――泰淳先生は当時の時代的背景から「支那」と表記していたけれど――に出兵している際に見たものいろいろ。優れた小説家は、鋭い観察者なんだなあ。
 奥泉『坊ちゃん忍者』。松吉、坂本龍馬と知り合う。
 
 
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五月五日(木)
「動物」
 
 七時、起床。そそくさと身支度を済ませ、九時出発。横浜動物園ズーラシアへ。行こうと思い立ったのは昨日だ。整骨院で、隣にいた女性がズーラシアを訪れたことを話しているのをふと思い出した。カミサンは以前から行きたいと言っていたはずだ。ぼくも仕事で手前のあたりまでは行ったことがあるが入園はした経験はなく、いつか一度はと願っていた場所だ。
 
 天気に恵まれたのは幸いだが、こどもの日を選んだのはまずかった。おそらく動物園が一年でいちばん混雑する日ではないか。ドウブツの鳴き声よりも子どもの泣き声のほうが耳につく。まあ、聞き比べるのも一興だろうということにする。
 基本的にドウブツの住環境を優先した設計となっているため、お目当ての個体がまったく見えないこともある。だが動物園のドウブツに固有な、無理矢理囲われていることに由来する悲壮感がまったく感じられない。のびのびとした姿を、サファリパークとは違ったかたちで観察できるのはドウブツ好きとしては喜ばしいことだ。
 夕方、帰宅途中に大崎で途中下車。ゲートシティに立ち寄り、「マーノマッジョ」で遅めの昼食。ホタテの貝柱と干しトマトのスパゲティ、ツナとタマネギのピザ。
 
 帰宅後は疲れ果て、文字通りバタンキューである。死語だが、いちばん的確な言葉。
 
 武田泰淳『身心快楽』。中国で考えたことアラカルト。
 奥泉『坊ちゃん忍者』。物語は佳境へ。
 
 
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五月六日(金)
「澄耳」
 
 雨が降ることは昨日の予報でわかっていたが、朝、ほんとうに降っているのを確認すると不思議な残念さにとらわれてしまう。降らないで、降らないはずだ、という願望や思い込みの身勝手さがその不思議さを生み出すのかもしれない。今日は鎌倉へ行く。海を見るのも山を見るのも、空は晴れていたほうがいい。だが雨だ。
 と書いて、自分が期待していたことは「見る」という行為だけではないことに気づいた。音が聞きたい。耳を澄ませ、東京の音とは異なるなにかを聞き取ってみたい。そんな思いに駆られる。招待してくれたゆうりさんは、自宅のあたりでは毎日ウグイスが鳴いていると言っていた。その美声を期待していたわけではないが、鎌倉らしさを醸し出してくれるほかの響きがあるに違いない。雨音は鎌倉らしさを助長するのか、否か。雨の鎌倉を聞いてみるのも一興だろう。そう思うと、雨はさほど苦にならない。
 
 十時、事務所へ。最低限の連絡確認などだけ済ませ、早めの昼食を取ってからカミサンと鎌倉へ。
 鎌倉駅は、雨だというのにひとが少なくない。連休のはざまの平日ではあるが、休みをとったひとも多いのだろう。カミサンは鶴ヶ丘八幡宮の美術館へ。ぼくはカウンセリングを受けるためにゆうりさんのサロンへ。
 先日、興味本位で受けた催眠療法のセミナーの受け方が悪かったのか、神経質なぼくには催眠そのものがあっていなかったのか、頭痛やフワフワした感覚が数日つづき、それがちょっとしたトラウマになりかけている、たとえば事務所で仮眠を取ろうとするとまたあのフワフワに陥るのではないかと不安になる。ところが自宅で夜眠るときは不安は感じないから不思議だ、そんなことを伝えたら、じゃあお客さんとしてウチに来てカウンセリング受けてみますか、とゆうりさんが提案してくれた。思い切って受けてみることにした。 カウンセリングというよりは会話である。ゆうりさんがさりげなくぼくが抱える問題を引き出し、その答えの糸口をぼくが見つけ、それに対してアドバイスしてくれる。その繰り返しが三時間つづいた。彼女は霊能力者の才能があるようで、霊媒や霊視ができるという変わった特技をもっているのだが、会話のなかにそんな要素はまったく出てこない。優秀なカウンセラーである。最後に、スピリチュアルなヒーラー/セラピストである彼女らしいリラクゼーションを二十分ほど受けてセッションは終了した。気分はすっきりした。頭のなかは、混乱しているのはいつものことだがちょっとは整頓できたような感じだ。雨音に混じってウグイスの鳴き声が聞こえた。雨音がやさしく響くのは、東京より緑が深いからだろうか。アスファルトを打つ雨の音は無機的に街を反響する。鎌倉の雨は、葉を打ち、木々を伝わり、山に沁みる。山に沁みた音が、やわらかに伝わる。遠くでは海を静かに打っているのだろう。
 カミサンもゆうりさん宅へ。三人で歩いて逗子マリーナへ。レストラン「グランブルー」で夕食をとる。雨のせいか、平日のせいか、店内はガラガラ、ぼくら以外にお客はほとんどいない。三人とも食べ物には目がない。旬のタケノコや逗子で水揚げされたまぐろなどの海鮮に舌鼓を打ち、店員さんにあれやこれやと質問したり絶賛したりを繰り返したら、三浦半島産のキャベツにピーナツソースをかけたものをサービスでいただいてしまった。キャベツの甘みをシンプルに堪能できる。わらいっぱなしでゆるんだ顔が、美味しさでさらにほころんだ。
 
 零時過ぎに帰宅する。胃が痛む。ワインを飲み過ぎたかもしれない。近ごろは酒にめっきり弱くなった。以前は味方だったアルコールが、ここ数ヶ月は敵に回っている。寝返ってくれる時は来るのだろうか。
 
 
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五月七日(土)
「怠石」
 
 九時、起床。雨はやんだが、空は曇っている。春先の不安定で霞んだ空を思い出した。先日までの初夏の元気さはどこへ行ったのだろう。
 
 ゆうりさんからメール。好転反応があるかもしれない、とのこと。胃痛や軽い頭痛を感じることは伝えておいた。
 
 午後より外出。御徒町の「ガリンペイロ」でカミサンの立体作品シリーズ「石なまけ」の材料用の石を購入。水晶、ローズクォーツ、カルサイト。ぼくはちょっと疲れ気味だったのでトルマリンのブレスを購入。スウェット上下にパーマのオヤジが、「ブレスレット用のゲルマニウムを四十センチくれ」と店員に頼んでいた。一粒でも高額だから前金を入れてもらわないとダメだ、と店員がごねている。
 荻窪ルミネの「アフタヌーンティー」でお茶。晩ゴハンの買い出しをしてから帰宅。
 
 夕食はジンギスカン。家中が羊肉臭くなった。
 
 武田泰淳『身心快楽』。滅亡についての考察。長くなるが、引用。
   ☆
 
 すべての文化、とりわけすべての宗教は、ある存在の滅亡にかかわりを持っている。滅亡からの救い、或はむしろ滅亡されたが故に必要な救いを求めて発生したものの如くである。滅亡はそれが部分的滅亡である限り、その個体の一部更新をうながすが、それが全的滅亡に近づくにつれ、ある種の全く未知なるもの、滅亡なくしては化合されなかった新しい原子価を持った輝ける結晶を生ずる場合がある。その個体は、その生じ来るものの形式、それが生じ来たる時期を自ら指定することはできない。むしろ個体自体の不本意なるがままに、その意志とは無関係に、生まれ出ずるが如くである。
 しかしながら滅亡が文化を生むとは、滅亡本来の意味からいって不可能である。文化を生む以上、そこに非滅亡たる一線、ごく細い、ほとんど見別けがたい一線があるにちがいない。今まではたしかにその一線があった。その一線を世界は、かなりおおまかに許していた。しかし、今後、それが許されるであろうか。第二次、第三次と度重なる近代戦争の性格が、滅亡をますます全的滅亡に近づけて行く傾きがある今日、科学はやがて、今までの部分的な、一豪族、一城郭の滅亡から推定される滅亡形式を時代遅れとなすにちがいない。そこにはもっと瞬間的な、突然変異に似た現象が起こりえる可能性がある。かつて銃器を持たない部落の土人にとって、銃器を持った異人種による攻撃が、ほとんどその意味を理解するひまもあたえられぬほど、瞬間的な、突如たる滅亡として終わったように、これからの世界は、この部落より遙かに大きな地帯にわたって、目にも留まらぬ全的消滅を行いえるであろう。
 そのとき、ヒューマニズムは如何なる陣容をもって、これと相対するであろうか。そして文学は、ヒューマニズムに常に新しい内容をあたえ得た文学は、どのような表情で、この滅亡を迎えるであろうか。ことに処女を失って青ざめた日本の文化人たちはこの見なれぬ「男性」の暴力を、どのようなやさしさ、はげしさ、どのような肉の旋律をもって享受するであろうか。
(中略)
 自己や家族の構成員の生滅について心をわずらわされている私は、せいぜいその生滅に関係のある範囲で、世界戦争を考える程度で、世界という個体の生滅を、長い目で、おおまかに見てとることをしない。世界の持つ数かぎりない滅亡、見わたすかぎりの滅亡、その巨大な時間と空間を忘れている。だが時たま、その滅亡の片鱗にふれると、自分たちとは無縁のものであった、この巨大な時間と空間を瞬間的により戻すのである。(滅亡を考えることには、このような、より大なるもの、より永きもの、より全体的なるものに思いを致させる作用がふくまれている)。
   ☆
 
 奥泉光『坊ちゃん忍者幕末見聞録』読了。たのしかったなあ。文学的に高い技術で、あえて娯楽ファンタジーに挑戦する。そんな方向があってもいいと思う。
 
 
 
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五月八日(日)
「誉親」
 
 目が覚める。ひとまず起きてみる。便所へ行く。小便を出す。止まらない。あまりの量の多さに驚く。台所へ行く。猫缶を空ける。書斎へ行く。花子にゴハンを与える。時計を見る。まだ七時前だ。花子が甘える。すこしだけ遊ぶ。眠くなる。花子と一緒に書斎で寝る。気がつけば九時だ。和室に向かう。カミサンを起こそうとしてみる。だが眠い。また蒲団に入る。眠る。気づけば十時だ。起床する。
 今朝に限ったことではない。時間の数値だけ可変とすれば、これが連休中の朝のパターンということになる。振り返るに、いささかだらけすぎてはいないか。明日からの平常運転に支障はないかと少々心配になる。がニンゲンとは順応性が高いイキモノだ。どうにでもなる。
 
 午後からすこし買い物。麦次郎の首輪を新調した。
 街は母の日一色である。企業側はすこしでも母の日に便乗して売り上げを伸ばそうと必死である。近ごろは、子どもたちが自分のおこづかいで買える価格帯のプレゼントがはやりのようだ。どのスーパーにも、百円のカーネーションや二百円のエプロンなど、アイデアをこらした低価格商品がならんでいる。それらを物色する子どもたち。高学年より低学年のほうが多いのは、幼いほど親に対する感謝の気持ちが強く、またさほどねじくれてもいないからだろう。父親に手を引かれて買いに来た幼稚園児もちらほらと見かけた。先日、ゆうりさんと、親をほめること、親にほめられることについて語り合ったのを思い出した。ほめかたを知らない親のなんと多いことか。自分の親もそうだったし、仮に自分が親ならば、上手に子をほめるなど到底できやしまい。だが、親とは本能的に子をほめたがるものだ。ほめられれば育つ、とはいささか陳腐な考えではあるが事実だろう。子が大人になってもおそらくはおなじだ。ニンゲンは外部から評価されることで自らの存在意義を見いだすことができる。ならば子離れした親こそほめられるべきではないか。評価されることを失ったニンゲンがたちまち途方に暮れるのは、定年退職した団塊世代、いわゆるモーレツ社員が多かったこの年ごろのおじさんたちを見ればすぐに理解できる。手を離れ、立派になった子から評価される。評価とは、感謝だ。過去を感謝し、より優れた未来を見いだすためのアドバイスのことだ。子離れを済ませた親の生い先はさほど長くはない。ならば豊かな老後を過ごさせるためにも、子は親をほめるべきなのだ。うまいほめかたなどしなくてもいい。ストレートなほうが、実りは大きいはずだ。照れという壁が崩れるのだから。
 と、こんなことを書く自分自身が、じつは照れてしまって親をほめることができない。
 
 夕食はお好み焼き。腹いっぱいだ。
 
  
 古井由吉『仮往生伝試文』を読みはじめる。文字どおり、往生すなわち死に至る過程についての作品。
 
 
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五月九日(月)
「平常」
 
 連休が終わった。若いころなら喪失感や虚脱感を味わったことと思うが、休むことの大切さこそ理解してはいるものの、休むこと自体にさほど執着がなくなったせいか、ああ終わったな、今日から仕事だと考えるだけだ。
 六時、起床。空はさほど初夏らしくない。曇りがちで、風も弱い。気温だけは上がりそうだということなので、やや薄着で出かけることにする。
 朝から花子がフニャンフニャンと鳴いている。連休中、一緒にいてあげる時間が長かったせいだろう。早朝から「行ってきます」を言うのは少々心苦しい。
 
 七時、事務所へ。午前中は事務処理や銀行回り。十四時、小石川のL社にて打ち合わせ。桜並木の若葉が若葉と呼べぬほどに色濃く、力強くなった。陽の光を照り返すのではなく、吸収し、あまったぶんだけ鈍く輝かせているように見える。
 
 十七時、吉祥寺パルコの「リブロブックス」へ。『群像』六月号、森茉莉『薔薇くい姫|枯葉の寝床』、田村隆一『腐敗性物質』、田中小実昌『ポロポロ』『アメン父』を購入。
 十八時、カイロプラクティック。
 
 二十時、店じまい。
 
 武田泰淳『身心快楽』浄土宗の「諸行無常」について。万物は常に生成と消滅を繰り返す、その変化を理解すること、すなわち世界の本質を理解することが大切である、と泰淳先生は説く。諸行無常は絶望ではない。ここからはぼくの解釈だけど、諸行無常=本質は決して悲しいだけのものではない。なぜならニンゲンは悲しい存在ではないはずだからだ。ぼくらには、喜びもある。
 古井由吉『仮往生伝試文』。テーマは重く、文体はきちょうめんだが、ユーモアたっぷりでもある。
 
 
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五月十日(火)
「一貫」
 
 六時、起床。七時、事務所へ。肌寒い朝。秋のような風が吹いている。空がいつもより高い。雲の広がりも秋めいている。季節を喪失したような感覚にとらわれた。
 
 E社企画に終始。午前中は資料を買いに新宿紀伊國屋へ。午後はひたすらそれを読む。
 新規案件の電話が多い一日。
 二十一時、店じまい。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。僧侶の正月の往生芝居。


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五月十一日(水)
「簡潔」
 
 六時、起床。七時、事務所へ。肌寒い一日。E社企画、E社カタログ、T社リーフレットなど。二十二時、店じまい。
 
 武田泰淳『身心快楽』。僧であることの苦しみ。そして泰淳先生お得意の「司馬遷」。
 

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五月十二日(木)
「玄妙」
 
 昨日の朝の空をコピー&ペーストでもしたのだろうか。それくらいよく似た天気である。おなじ季節のなかでなら、おなじ空やおなじ天気があってもいいと思わぬでもないが、それでも季節は玄妙にではあるが移ろい、おなじことはない。昨日の空は、今日の空ではない。昨日の空気の冷たさは、今日の空気の冷たさとまったくおなじわけではない。そのわずかな違いを感じ、書きとめてみたいと思うがうまく書けない。寝ぼけていたからなのだろうか。それとも季節の変化とは、ニンゲンの感覚など越えたところで生じるものだからなのだろうか。六時、起床。
 
 七時、事務所へ。自宅に溜まっていた読まないマンガをもっていく。段ボール一箱分である。事務所にあった不要な本を加えてブックオフに送りつけた。いくらになるか、楽しみだ。
 E社企画に終始するも、新規案件の依頼の電話や不動産屋とのやりとり、果てはしまちゃんとのプライベートなメールの交換と、E社以外のこともてんこ盛りだ。
 二十時三十分、店じまい。「モカッフェ」で夕食をとってから帰宅する。
 
 花子、これでもかといわんばかりの甘えっぷり。日記を書いている今も、ぼくの左手の上から覆い被さるようにくっついてきた。ずっと喉をゴロゴロと鳴らしつづけている。髪の毛は何度なめられたかわからない。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。風呂で読んでいるが、最近はどういうわけか入浴すると眠くなるのであまり読めず。あーあ、時間がもったいない。


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五月十三日(金)
「風邪」
 
 連休明けから大量受注。しかしどういうわけか風邪を引いた。鼻水が出る。頭が痛い。味覚がなくなった。さて、どうしたものか。
 
 
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五月十四日(土)
「風邪」
 
 九時、事務所へ。仕事。風邪、治らず。寒くて集中できない。
 十九時、店じまい。帰りがけに「ナガミネ百薬堂」で漢方薬を処方してもらった。良薬口に苦し。
 早寝することに。
  
 
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五月十五日(日)
「風邪」
 
 今日も九時に事務所へ行くが、仕事は遅々として進まず、体調も戻らない。
 カミサンが「高野フルーツパーラー」のフルーツを買ってきてくれた。マンゴー、グレープフルーツ。風邪にはビタミンだ。
 二十時、店じまい。
 今日も早寝したい。
 
 
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五月十六日(月)
「風邪」

 治らない。治す気力だけは一丁前だが治癒力が全然追いつかないのか。漢方薬局のオヤジからは、疲れているから休んだほうがよいと言われた。疲れを気力で回復させるのはさすがに無理がある。時間がほしい。
  
  五時、枕元でモゾモゾなにかが動いている。風邪ボケなのか、それが麦次郎だとわかるまでずいぶん時間がかかった。うつさないようにするためにカミサン、麦とは別に蒲団を――ほんとうは寝袋。上からさらに掛け布団を重ねた――敷いているのだが、それがどうやら珍しいらしい。クンカクンカと念入りに匂いを嗅いでいるようだ。
   
 七時、事務所へ。E社おこちゃま向け企画。十時、化粧品メーカーG社の件で小石川のL社に。十三時帰社。またE社の企画に戻る。
 夕方、漢方薬局へ。
 二十一時、終了。
 
 夕食は「桂花飯店」でホイコーローなど。風邪には豚肉。調子悪そうにしていたら、店主が気を利かせてニンニクを多めにしてくれた。店主とはじめて話す。ホットミルクを飲め、と勧められた。
 就寝前に飲んでみる。なるほどたしかに暖まる。
 
 武田泰淳『身心快楽』。評論集のコーナー。
 古井由吉『仮往生伝試文』。食べることと、往生。
 
 
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五月十七日(火)
「洟闘」
 
 朝陽が目覚まし時計のかわり、といえば健康的で昼行性生物の本来あるべき姿のようで聞こえはいいが、朝陽で目覚めた麦次郎が枕元でなにやらガサガサしている音で目覚める、と実状をあかしてみれば、理想の目覚めというイメージはたちまち幻想となる。もっとも麦次郎は朝陽で目覚めているわけなのだが、猫とは夜行動物ではなかったか。長年飼われればニンゲンの生活のリズムにも染まるだろうが、アタマのすぐ横でバリバリと爪を研ぐ麦次郎は、まだ寝ているぼくの生活のリズムを確実に壊している。だがそれに腹を立てるほど狭量でもない。一緒に寝るか、と誘いの声をかけ蒲団を持ち上げてみたら、無視してどこかへ消えてしまった。カーテンの内側で陽に当たるつもりにでもなったのか。朝陽は明るい。カーテン越しに光が透けた。
 
 目覚めてもすっきりしないのは、風邪が長引いているからか。それとも目覚めてもすっきりしないほど疲れているから症状がダラダラつづくのか。六時、ボヘーッとしながら身支度し、七時、事務所へ。昨日もらった漢方薬、効いているのかいないのかいまひとつわからない。マスクをかける。息苦しい。街のあちこちで薔薇が咲いているが、その香りがわからない。
 
 Q社DVDレコーダーの販促ツールに没頭する。洟垂れとの闘い。今のところ劣勢なのがくやしい。
 十九時三十分、なんとか書き上げたので帰って休むことに。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。極限状態の食欲とは生への執着だ。しかし、生とは着実に死へと向かう過程でもある。死期をさとり、理想の往生を遂げるために、最後の刹那まで命に灯をともすべく粥をすする。食という行為、食欲という本能の深さを実感した。


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五月十八日(水)
「恢復」

 風邪が治ったと確信するのに必要な条件はなんだろうかと、理屈っぽいのに曖昧な、よくわからないことを考えた。まだ鼻水は流れる。声は鼻声で軽いせきも出る。頭痛も鈍くつづく。なのにもう大丈夫だと思うことがある。症状は抜けきっていない。だが心だけは晴れやかで、身体を動かすことや食うことばかりに気持ちが向かう。病は気から、とはありきたりな格言だが、心の乱れ、気の乱れが病身をつくるのならば、心の平常、気の安定が病を消し去るとも言えるはずだ。順番を入れ替えただけの話である。そんなに単純ではないと言われればそれまでの話かも知れぬが、体調の乱れはオーラの光にもすぐに影響すると、その道に詳しいひと――しまちゃんのことだ。ゆうりさんも言っていたかも――から聞いた。オーラクリーニングという技法もあるらしいから、やはり病は気から生ずるのであれば、気を正せば病は消えるという理屈はあながちはずしていない。もっとも、なんでもかんでも気を正せ、で片づけるのも問題ではある。
 なにはともあれ、風邪は快方に向かいはじめた。
 
 六時、起床。七時、事務所へ。風が強い。一戸建ての塀から電柱までつたって伸びるジャスミンが、ぼろぼろとその白くて小さい花を落としている。風にあおられ回転しながら散るさまは、桜の散り際とは違った不思議な魅力がある。散ることそのものからにじみ出る「もののあはれ」ではなく、螺旋を描きながら落下するその軌跡、言ってみれば物理的な落下運動の魅力だ。ただ、それを計算してみようなどとは思わない。そこが文系人間の特長か。一句詠んでみたくなったが、
    ジャスミンの残り香見えず花は消ゆ
 せいぜいこんな程度だ。
 
 G社企画。午前中は店頭視察。午後はすこしだけ作業。風邪は治ったが疲れが溜まって脳味噌がうまく動かないのでリフレクソロジーサロンで足の裏を揉んでもらった。
 十九時三十分、店じまい。

 古井由吉『仮往生伝試文』。男女と往生。死ぬときは、別々なのだ。
 
 
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五月十九日(木)
「沁汗」
 
 汗ばむのは風邪のせいか、陽気のせいか。じわりと熱のこもる朝六時のリビングに違和感を覚え、あわてて天気予報を見れば最高気温は二十六度とある。初夏だ、と思った。季節は何度も後先の季節と順番を入れ違えながらやってくる。
 花子、いつも以上に今朝はしつこく鳴いてぼくを呼んだ。
 
 七時、事務所へ。マンションのゴミ集積所に可燃ゴミを出すと、ひさびさに烏におそわれていた。生ゴミがひっぱり出されている。烏よけネットがビリビリに破れているからだろうか。筍の皮を見つけた。
   朝烏散れる芥に竹の皮
 俳句にしてみたが、これはひどいなあ。ひょっとすると、烏は秋の季語かもしれない。
 E社企画など。十七時三十分、小石川のL社へ。三時間半も打ち合わせした。
 
 夕食は「牛繁」にて。ちゃっちゃと食べてちゃっちゃと出てきた。
 
 武田泰淳『身心快楽』。
 
 
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五月二十日(金)
「故障」
 
 
 六時、起床。七時、事務所へ。あちこちで薔薇を見かけるようになった。
   陽を返す垣根の薔薇の白さかな
 
 E社企画、N社ポスター。二十時、終了。
 
 夜、愛用のPDA、palmOne Tangsten Cが突然動かなくなった。原因不明。バッテリーが熱い。暴走したのだろうか。明日、会社で手をかけてみるが復旧しなければ買い換えになるかも。保証期間中だが、ないと仕事にならないから。
 
 
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五月二十一日(土)

「復活」
 
 七時、起床。PDAが壊れたかも、と思うと気が気ではないが、バッテリーを再充電すれば大丈夫だろうと信じ、八時三十分、事務所へ。
 
 充電したら案の定生き返った。ただし、データは全部消えてしまっている。昨日、帰り間際にバックアップしておいてよかったと痛感。しかし、どういうわけかそのままリストアできない。試行錯誤するがエラーばかり出る。しかたないので必要なソフトウェアを全部インストールしなおし、そこにスケジュールやメモやアイデアをまとめたものなどのデータを移すことにした。午前中で作業はなんとか完了。
 
 午後からマンションの内見へ。高井戸のマンションは、内装や管理体制、間取りなど建物の価値自体はたいへん満足できたが、幹線道路や高速が多いせいかあちこちでクルマがビュンビュウンと走っていて、歩道も歩いて楽しい道も少ないようだ。歩くことが好きで、クルマをもたず興味もないぼくら夫婦がこの街に住むにはかなりの割り切りがいる。やむなくこの物件は断念する。つづいて西荻窪駅から徒歩十二分のマンションを見るが、こちらは安っぽくていい加減な内装と設計、お話にならない。
 
 十九時、「ビストロ・サン・ル・スー」へ。今日は十年目の結婚記念日である。ふたりでコース料理を楽しんだ。田舎風サラダ、メバルの緑コショウソースのカルパッチョ(なのかな?)、マダイのポワレ、地鶏もも肉のグリル。内見は期待はずれだったが、こちらは期待以上である。緑コショウソースは、コショウとはこんなにフレッシュなものなのかと驚かされた。田舎風サラダにあった生ハムとレバーのパテは、市販では絶対に楽しめないほど味がしっかりしている。こくがある。風味がいつまでも口に残る。マダイのソースはナントカエビとレンズ豆らしいが、これまたこくがあるのにマダイの味をまったく殺さず引き出している。デザートのフルーツタルトやプルーンのケーキも楽しめた。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。そうとは知らずに盗人の婿となった男。家族への想いと逃げ出したい気持ちの間で揺れる。
 
 
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五月二十二日(日)
「歌劇」
 
 八時、起床。曇天。午前中は玄関を掃除する。結露がカビを呼び、カビは自宅への愛着を失わせる。よい家なのに、惜しいと思う。
 
 夕方、荻窪の西友へ。偶然L社のNさんと遭う。そうか、この近所にお住まいでしたか。
 十九時、義父母とともに「荻窪の音楽祭」のトリを飾るイベント、オペラいいとこつまみ食い的企画の鑑賞会へ。フェリスの教授をやっているテナーの声楽家が、弟子なのか、三人のソプラノといっしょに「椿姫」を歌う。オペラを生で体験するのははじめてだ。会場はあいにくタウンセブンの会議室だが…。密室オペラだ。ソプラノはまだ勉強中という感じだったが、それでも迫力は十分伝わった。なんせ、ふつうのオペラよりも歌い手と観客の距離が近い。これはある意味贅沢だろう。テナーにはベテランらしい力量を見せつけられた。満足である。
 夕食は義父母宅にて。
 
 二十二時、帰宅。善福寺側沿いの遊歩道をのんびりと歩く。ジャスミンの香りが甘く漂っている。空を見上げる。半月よりはかなり太めの月が、明るく雲ににじんでいる。
   風薫り水面に揺れる月の影
 風薫り、で五月の季語になるのかなあ。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。奪うこと、夫婦として生きること、そして往生すること。どれもニンゲンの本能であり、そしてだからこそ矛盾も抱えているようだ。


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五月二十三日(月)
「体睡」
 
 目は覚めている。アタマも冴えている。起きる時間だ、とわかってはいるがなぜか身体が動かない。疲れているのか。一晩寝ても癒せぬほどの疲れとはなにによるものだろう、そもそも自分は昨日それほど疲れたことをしただろうか、と訝しんだ。そうこうしているうちに、先にカミサンが起きて花子にゴハンを与えてくれた。アタマは少しずつぼやけはじめてきたが、反比例するようにカラダに血が通いはじめた。起きあがる。小便をする。長い、長い小便だ。いつまでたっても途切れない。そこでようやく、疲れていた理由を思い出すことができた。おそらくは昨日の密室オペラだ。アタマの中を、ソプラノのキンキンした声がまだ駆けめぐっているようである。
 
 七時、事務所へ。E社企画など。十三時三十分、五反田のL社で打ち合わせ。新宿駅構内の書店で、矢沢あい『NANA』2巻を購入。帰りの電車で読んだ。

 突然の夕立。雨音よりも、雨トイを流れる水の勢いに驚かされた。
 
 二十一時、店じまい。「力車」で軽く焼き肉を食べてから帰宅。 

 古井由吉『仮往生伝試文』。往生の前に殺意があり、殺意の前に、殺気がある。
 
 
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五月二十四日(火)
「断絶」
 
 六時、起床。七時、事務所へ。黙々と、ただ黙々と作業をつづける。
 
 午後、今日も突然の雨。夕立はそれまでの時間の流れを堰き止め、分断する。動作は停止し、思考は停滞する。水の動きに目を向けてみる。水の流れに耳を澄ませてみる。その躍動、自然のダイナミズムに共鳴することができれば、時間や動作や思考の断絶など感じないのかもしれない。万物流転、諸行無常。突然の雨もあれば、長雨もある。流れは異なる。音も異なる。
   夕立にしばし手休め耳澄ます
 …あまりいいできじゃないなあ。
 
 二十二時、店じまい。まだ雨は降りつづけている。
 
 仕事ばかりでほとんど読書できない一日。


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五月二十五日(水)
「造語」 
 
 もんやり、という単語がアタマに浮かぶ。こんな言葉は辞書にはないはずであるが、それでもここ数日の朝の目覚めの状態を表すには、これがいちばんしっくりすようだ。単純に、もっさりとぼんやりがどこかで交わりごっちゃになっただけの話、いつの間にかこんな単語になっていただけであろうが、おそらくは自分の内面から自然に出てきたものであろうから、それだけに、少なくとも自分ひとりにとっては表現力豊かな痰度であるように思えるが、偏見だろうか。言葉とは、複数のニンゲン、すなわち社会における意思伝達――と意志の拒絶――の手段であったことを思い出す。
 今朝は五時に目が覚めた。六時まで、蒲団の中でもんやりとしていた。
 
 七時、事務所へ。午前中は五反田のL社で打ち合わせ。午後よりE社企画に没頭。没頭しすぎてアタマがもんやりしてきた。
 二十一時、店じまい。
 
 夕食は「のらぼう」へ。はじめての店だ。地元で採れた有機野菜が売りらしい。確かに野菜は新鮮でうまいのだが、スローフード的なメニューのわりに店内がラーメン屋なみに狭い。店員はゆっくり仕事を楽しんでいるというふうではなく、むしろわずかな席数だというのにうまく対応しきれずアップアップしているようだ。これでは食事を楽しもうという気にはなれない。イライラした気分で店を出た。
 
 古井由吉『仮往生伝試文』。難解なのでなかなか進まない。
 
 
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五月二十六日(木)
「簡略」
 
 六時、起床。七時、事務所へ。終日作業に没頭する。二十時、終了。
 
 矢沢あい『NANA』を読んでいる。某企業のお仕事の資料としてなのだが、なかなか楽しめる。矢沢あいの作品は八七年ごろに妹の「りぼん」を借りてよく読んでいたが、絵柄も物語のテーマもまったく異なっていて驚きだ。
 

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五月二十七日(金)
「試写」
 
 早朝にまとめて作業して午前中に納品、午後は次の仕事のための企画練りや言葉のひねりだしに悪戦苦闘する、というパターンがつづいている。七時過ぎには事務所にいるのだからこうなるのは当たり前だが、どちらかというと企画を練るのは午前中のほうが脳が濁っていなくてよいように思える。が、おそらくそんなものは思いこみだろう。やる気の問題と、得意先が求める納期のバランスなのだ。
 
 午前中は銀行まわりなど。午後から有楽町の東宝本社で、劇場版『NANA』の関係者試写会を観る。たまたまちょっと関わりを持っただけで関係者ではないのだが、招待されたので行ってみた。日比谷のシャンテの十一階にある関係者試写会専用のスペース。スクリーンは小さめだが設備はそこらの映画館顔負けではないか。前の列のひとのアタマが気にならない設計がうれしい。映画の内容はオフレコだから触れられないが、中島美嘉と宮崎あおいの演技はハマリすぎだとだけ書いておく。
 
 夕方からE社企画など。二十三時、帰宅。
 
 武田泰淳『身心快楽』。昭和三十年代の訪中記。現在の日中関係をアタマに入れながら読むとなかなかエキセントリックである。
 矢沢あい『NANA』。全12巻一気読みの予定。 
 
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五月二十八日(土)
「寝治」
 
 カミサンが風邪を引いたようだ。喉の痛みをしきりに訴える。ほかの症状はないらしいが、個展が近いので熱を出しているわけにはいかない。今日は大事をとって寝る、と言っている。このひとの場合、動物のように寝ていればたいていの病気は治る。自然治癒力が強いのだろう。
 
 午後から荻窪の西友へ買い出し。夕食はぼくが作った。しいたけソースのステーキ。
 
 書斎だけで過ごしてもらっていた花子、ちょっと廊下に出してみる。家の中のほかの空間になれさせ、すこしずつ生活範囲をひろげよう。

 矢沢あい『NANA』一気読み進行中。

 
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五月二十九日(日)
「多買」
 
 カミサン、風邪はだいぶよくなったようだ。
 
 午前中は便所掃除。
 
 午後から吉祥寺へ。給料日直後なので結構な人手だ。子どもがあちこちで泣いているのに辟易しながら買い物。パルコの「リブロブックス」で、多和田葉子『ゴットハルト鉄道』、小川洋子『やさしい訴え』、保坂和志『<私>という演算』『明け方の猫』、『戦後短編小説再発見8 歴史の証言』『同9 政治と革命』を購入。ほか、あっちこっちでいろんなものを。
 
 夜は黙々と『NANA』を読む。

 
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五月三十日(月)
「霧雨」
 
 雨。目覚めて、起きあがり、身支度して、ドウブツの世話をし、さて出かけるかというときになってようやく気づいた。霧雨には気配がない。ないというわけではないのだろうが、その微細な音と形は、たちまち生活の騒音や家々のシルエットに紛れてしまう。耳を澄ます。目を凝らす。毎日そうして暮らしているつもりが、つい暮らしのほうが優先され、感覚をおろそかにしてしまう。そうするうちに、自然の摂理はすこしずつニンゲンの世界から離れていくのだろう。いや、ニンゲンのほうが自然の摂理から遠ざかっていくのだ。耳をふさぎ、目を閉じた状態で。
 
 七時、事務所へ。事務処理、事務処理、事務処理。
 十六時三十分、カイロ。
 十九時、麻布十番のO社で打ち合わせ。二十二時、帰社。二十二時三十分、店じまい。まだ雨は降っている。霧雨はすこしずつ雨足を強めていったようだ。今はいわゆる「本降り」である。日記を書いている自宅の裏手に流れる善福寺側の、水の音が書斎に響いてくる。
 
 
 武田泰淳『身心快楽』。訪中記。

 
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五月三十一日(火)
「寛容」
 
 昨朝から途切れることなく降りつづけていたのか。そう思うと相手は自然現象ではあるが、その根気強さについつい感心してしまう。とはいえやはり雨とはいやなものだ。屋根の下にいれば風情を気取ることもできるが、豪雨の中で傘を差さねばならないときは、腹の底から呪いのような口汚い言葉が漏れる。そんな自分がいやになる。自然ほど寛容な存在がこの世にあろうか。寛容な存在の軽い気まぐれに腹を立てる自分の器の小ささ。
 
 疲れているのか、なかなか蒲団から抜け出せない朝。天気が悪いと猫たちの寝起きが悪くなる、とカミサンがよく言っているが、ひともおなじということか。眠くてたまらない。猫は寝子だと誰かに教えてもらったのを思い出した。
   五月雨に猫は寝子だと思い出し
 これまたひどい句。
 
 八時、事務所へ。黙々とG社企画の作業。
 昼前に雨が上がった。にわかに気温が上がってきたようだ。少々汗ばむ。
 二十時、店じまい。  
 
 矢沢あい『NANA』十二巻まで読了。すげえなあ。ポスト少女漫画だな。
 古井由吉『仮往生伝試文』。定家の父の往生。往生よりも死後の供養のほうが昔は盛大だったようだ。


  
 


 
 


  



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。鼻うがいの仕方を覚えた。

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