「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

二〇〇四年四月
 
 
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四月一日(木)
「昔は四月馬鹿って言ったよな」
 
 エイプリルフールだが子どもの頃以来この日に積極的に嘘をついた記憶はなく、それどころかだまされたこともほとんどないようで、粋な嘘をついて皆を感心させたりリアリティ溢れる虚構で激昂させたりといったことは、自分自身では体験したことがない。人を騙すことは好きだがそればかりでは信用をなくす。結局信用だとか信頼だとかいった言葉にこだわりすぎた臆病な現代人のもつ頑固な「常識」がエイプリルフールの洒落っ気を消滅させてしまったのではないかと思うが、自分も股その「常識」とやらに組み込まれてしまっているのかと考えるとぞっとする。嘘をつきたくなる。いっぱい。
 
 夕べは十二時前に寝てしまったせいか、七時に目が覚めてしまった。春眠暁を覚えずというが、嘘だねありゃ。気持ちよすぎて、目が覚めちまう。天気のよさに本能的に興奮させられるのかもしれない。
 四十分ほど蒲団の中でうだうだしてから起床、いつもよりほんの少しだけスローなペースで身支度してから会社に行く。
 
 E社プロモーション企画、D社PR誌など。十五時、久々に代官山のJ社へ。電車の中では春めいた装いの女性が多くて、やはりファッションとは季節を表現するものなのかと考えていたが、代官山を歩く人たちは何となくまだ冬を引きずっているように見えた。いや、ひょっとすると基本的なカタチが一年を通しておなじなのかもしれない。もっとも、ぼくもあまり他人のことは言えない。一年中黒ずくめだからだ。まあ、流行とは大きくは慣れたダブダブのシルエットのセットアップばかりを着るところが、彼らとは違っているのだけれど。
 咲く花に季節を感じる。これもまた外出したときのひとつの楽しみなのだが、あいにくこの街には花がない。代官山にいることが苦痛になってくる。
 
 二十一時三十分、店じまい。隣のらーめん屋「まるや」で夕食をとってから帰宅。
 
 相変わらずきゅーの体調が悪い。ごはんをしっかり食べてくれない。また病院に連れていったほうがいいかもしれない。
 
 田村泰次郎「鳩の街草話」を読む。読了。戦後、ヤミで一稼ぎしていた男が使い込んでしまった仲間の金を返すために、嫁を遊廓に売る話。と書くとベタな懐古調メロドラマになってしまうのだが、この設定を冷めた夫婦関係を描くために使ったというところが秀逸。ずれた視点からの、悲劇の異化作用とでもいうべきか。
 武田泰淳「もの喰う女」を読みはじめる。こちらも戦後モノ。新聞社に勤める美人にあまり相手にされなくて悔しい思いをしている主人公が、喫茶店の女給と親しくなる、という話。これ、女給のモデルは百合子じゃないかな。だとすれば、主人公のモデルは泰淳、これは私小説ということか…。泰淳と私小説。うーん、なんか違う。『目まいのする散歩』は私小説という枠から思いきりはみだしちゃってるしなあ。
 
 
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四月二日(金)
「吉と出るか、凶と出るか」
 
 八時起床。きゅーは少しだけゴハンをついばんだようだが、あいかわらずあまり動かずぼーっとしつづけている。カミサンと相談し、今日は病院に連れていくことにする。ぼくは仕事があるので、カミサンにすべてを託すことにした。 
 
 九時、事務所へ。トリの体調不良は気温差の激しさによるところが大きいらしい。わが家ではきゅーの籠にはヒヨコ電球とサーモスタットを入れているのだが、それでも病弱なヤツの身体にここ一ヶ月くらいの激しい寒の戻りや夜の冷え込みはこたえているらしい。今朝はそのような状況に加えて雨空ときた。だが、しだいに雲は切れ、青空がのぞきはじめた。気温が上がる。これがきゅーに吉と出るのか、凶と出るのか。
 
 十二時、カミサンとkaoriさん、ぼくの三人で「ぷあん」で昼食。kaoriさんと会ったのは、きゅーのためのバッチフラワーレメディを分けていただくため。ぼくの偏頭痛の治療にも使っている、一種の自然療法のようなもの。
 
 夕方、カミサンひとりできゅーの病院へ。入院すると連絡を受ける。食が細くなっているので様子を見てもらうことに。
 
 二十一時、店じまい。
 
 最相葉月『絶対音感』を読みはじめる。小学館ノンフィクション大賞受賞作。
 
 
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四月三日(土)
「きゅーの病状、きゅーの痛み」
 
 八時三十分起床。空は季節相応の晴れ肩というべきか、うっすらとガスのような雲が藍色の空の鮮やかさを濁らせているが、空をぼんやり眺めているとそのガスが暖かな陽の光を巧みに拡散させ、それが春の暖かさをつくりだしているように思えてくる。これだけ天気がよければ闘病中のきゅーもきっとゴキゲンになるだろうと思うが、あいにく今日は入院中で強制給餌を受けている最中だからわからない。病院で朝日に興奮しているかも。
 
 九時三十分、事務所へ。N不動産チラシ、O社企画書など。
 十七時、カミサンときゅーを迎えに都立家政の「中野バードクリニック」へ。やはり体調不良の原因は気温の変化による体力低下らしい。少しでも腹の中にゴハンが入れば消化器官の動きも活発化してしっかり食べるようになるらしいのだが、体力が低下すると食欲が減退し、それが消化器官の停滞を招き、悪循環に陥るのだそうだ。ただ、ぼくはきゅーの体調不良は心の病のような部分が大きいように思えてならない。おそらくヤツはうりゃうりゃが死んだときの悲しみを、いまだにひきずっているに違いないのだ。このぼくですら、あれから一年たってもいまだに心を痛めている状態なのだから、うりゃとの結びつきがぼくとおなじか、ぼく以上に強かったきゅーの痛みはやはり計り知れない。そしてその痛みはぼくの痛みよりも動物としての本能に由来するぶんだけ、掴みにくくて、深いのだ。
 
 笙野頼子『水晶内制度』。負け女の遠ぼえ、って言ったら失礼なんだろうなあ。『レストレス・ドリーム』とテーマは近いはずなのに、本作にだけそう感じてしまうのはなぜだろう。
 最相葉月『絶対音感』。深く考えずに、絶対音感をもっていることってスゲエなあとだけ感じながら読み進めている。
 
 
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四月四日(日)
「浮かばれない桜」
 
 八時、一度――正確には五時に花子にゴハンを与えたので二度目だが――起き上がりきゅーの様子をみてみる。元気そうにゴハンをついばんでいるので、まあ安心したが油断はできない。外は雨で窓には真夏の汗のような結露がびっしり、おそらく気温はかなり低くなっているだろうからだ。保温に気をつけるようにして、もう一度蒲団に入る。
 
 九時三十分、起床。掃除、片付け、アイロンがけなど。
 午後から西友へ。雨降る灰色の空、気温も冬に戻ったようだが身が縮むほどではない。桜の花は雨に散り、アスファルトの上にペタペタとへばりついている。やがては風化し塵と化すのだろうけれど、土に帰れずアスファルトの上を彷徨いつづけるのでは浮かばれないなあ、などと思いながら葉桜を眺めた。
 
 十五時、帰宅。ダラダラと読書していたら眠くなってしまったので寝た。本能の赴くまま、というのも悪くない。普段、ぼくらは行動を自制しすぎている。
 
 夕食は豚肉とごぼうのナムプラー鍋。
 NHKのアニメ『火の鳥』を観る。アニメは期待していた深夜枠の『エリア88』に落胆していたところなので、少々飢えていたようだ。単純におもしろいと感じてしまう。名作のアニメ化は難しいと思う。オリジナリティを加えようとすれば失敗するのは目に見えている。何もしなければフェイクをクリエイトするだけで終わってしまい、人々の心には残らない。今回はいい意味でオリジナルに忠実、という感じかな。監督は『装甲騎兵ボトムズ』の高橋良輔だから期待できる。ま、じつは高橋氏は往年のファンからはクソ呼ばわりされている『エリア88』にも、アドバイザー的に参加していたのだけれど。こちらは全面的に高橋氏が仕切るのだから、大丈夫だろう。
 
 最相葉月『絶対音感』。戦中、絶対音感が敵機察知などの軍事に活用されていたこと、絶対音感教育が軍事目的で行われていたことをはじめて知る。
 笙野頼子『水晶内制度』読了。死ぬ間際ににウラミズモの神話を口述で完成させる主人公。そこによみがえる「常世」のイメージと、その常世へと真っすぐに、そして絶望的につながってしまっていた主人公の悲しい「女」という性。このラストがなかったら、本作はただの負け女の遠吠え小説だ。本の帯には「最高傑作」とあったけど、確かにそれに近い完成度。でも『レストレス・ドリーム』は越えていないなあ。
 
 
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四月五日(月)
「久々に長い日記(ひとつの文が)」
 
 ちょっと早めに床についたせいか七時に目が覚めてしまったのだが、朝日に反応してぷちぷちが大きな声でさえずっていたのでその声にぼくが反応しただけなのかもしれないなどと思いつつ蒲団の中でもう少しだけ、とひたすら目をつぶり眠ろうとしたが、そうすればするほどに頭が冴えてくるようだったので七時半に起きたらきゅーまで元気になっていてバクバクとゴハンを食べていたのでひと安心、自分の身支度をちゃっちゃと済ませていつもより二十分近く早い八時四十分に家を出てみたのだが、葉桜がやたらと目につきこれで春が終わるのかななんて考えたが、春の次は夏、という発想はちょっと短絡的過ぎてぼくは嫌いだから、新緑の季節が来るということで勝手に納得しながら歩いたのだが、そんな気分も事務所につけばたちまちどこかへ消えてしまうのが常で、掃除と植木の水やりを終わらせるとすぐに仕事に取りかかり、そのときにはもう外のことや季節のことなどまったく考えずにただひたすら仕事をこなしつづけるのだが、集中力とはそう長くつづくわけでもなく、昼が来れば腹が減り、飯を喰うことになるのだが、今日は電話がつづいたり途切れ目をうまく見つけ出せなかったりでなかなか弁当を買いに行けなかったのだが、だからだろうか、今日の昼飯の「ソースカツ弁当」はざくざくとかきこめるのにソースの味もカツの味も美味で、おまけに付け合わせになっていたベニショウガも人工着色料を使っていなかったからぼくはご機嫌、しかし腹いっぱい喰えば眠くなるのがニンゲンだから当然ぼくも眠くなるが、もちろん眠らずに仕事をし、十七時になったら事務所を出て代官山のJ社に向かい、新規案件の打ち合わせだったのだけれど三時間もかかったので少々疲れ気味で代官山を去り、この時点で眠くなったかといえばもう眠気なんて全然感じていなくて、しかし荻窪の「ジュノン」でカレーといっしょにビールを頼み、食前にクイッとグラスを空けたらたちまち眠くなり、でも眠らずにがんばってカレーを食べ、満月の明るい夜空をひとり歩いて帰宅したのが二十二時三十分で、このときもまだぼくは眠くなく、風呂に入り日記を書きはじめたら眠くなったので、もうすぐ寝ようと思っている。
 
 武田泰淳「もの喰う女」読了。混乱した愛欲。
 吉行淳之介「寝台の舟」読了。男娼もといオカマ娼との不思議な関係。白く濁った目をした女子高生と、のど仏がでっぱり興奮すると男性のように勃起してしまうオカマとの対比。
 
 
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四月六日(火)
「怠け者だなあ」
 
 八時起床。目覚めた直後は朝日のおかげか気分も身のこなしも軽快なのだが、家を出るとたちまち身体が重くなる。持ち歩いている鞄が重たいという物理的な理由だけではないのだろう。仕事がイヤといえばイヤなわけだが、仕事がスキといえばスキなわけで、したがってそんな身勝手な感情によって身体の重量感覚が狂うわけなどありはしないと思うから、なおさらこの現象は不思議である。
 
 九時、事務所へ。O社企画、E社企画など。十六時、五反田のL社へ。新規案件の打ちあわせ。
 十八時三十分帰社。二十時、店じまい。
 
 帰りがけに、一戸建ての家の庭から大きく道のほうへとはみだすように枝を広げる桜の木の下を通る。花は散りはじめてはいるがまだ大半は枝にしがみつくようにして咲きつづけている。この木の下を通ると、フワリと鼻腔に桜の花の香りがするから不思議だ。ほかの桜のそばを通っても、いわゆる「桜餅」のような香りはただよってこない。花に顔を近づけその香りを楽しもうという気持ちがなければ桜の香りなどわからないはずだ。ところがこの木だけは妙なほどに芳しいのだ。特殊な種類なのかもしれない。不勉強ゆえに香りの由来がわからないのが少々悔しいが、馬鹿だからこの木の下を通りすぎると種類を調べておこうなどという気がたちまち消えてしまうから厄介だ。こうして日記に綴っている今も、調べようとは考えていない。怠け者だなあ。
 
 河野多恵子「明くる日」を読みはじめる。病気で子どもが産めない身体になっていたことに気づいた女の心理。
 金井美恵子『噂の娘』を読みはじめる。五十年代の田舎町が舞台らしいが、よくわからん。あいかわらずセンテンスが長い。
 
 
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四月七日(水)
「じつはバッタバタなので、短めです」
 
 朝、花びらはどこから散っているのかを探しながら事務所へ向かい、夜、アスファルトに汚れる花びらが路肩に溜まるさまを見ながら家に帰った。そんな一日。と書くと閑な春の一日のようだが、じつはバッタバタである。
 
 河野多恵子「明くる日」読了。生の、そして性の終わりの予感は、性なき生のはじまりの予感でもある。そのせつなさ。
 野坂昭如「マッチ売りの少女」を読みはじめる。変態的な文体による戦後間もない頃の娼婦の汚れた一生。そんなところなのかな。
 
 
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四月八日(木)
「心配なトリ」
 
 八時起床。きゅー、天気が今ひとつなせいか体調が悪そうだ。心配である。
 
 十時、大崎のE社へ。パンフレット打ちあわせ。十一時三十分、終了後「スープストック」で軽くそして慌ただしく昼食を済ませ、五反田のL社へ。L社のZさん、Tさんと打ちあわせしてから事務所に戻る
 
 午後からはO社企画に専念。十五時、スープだけでは腹が減ったので二度目の昼食を、と思っていたらカミサンがkaoriさんと会ってきゅーのために注文したバッチフラワーレメディを受け取るというので、そこに同席することに。駅前のパン屋でサンドイッチを食べながらkaoriさんから説明を受ける。やはり一年前のうりゃ兄貴の死のショックから立ち直れていないのではないか、というのがkaoriさんの意見。ぼくらも同感。そしてぼくもまた、うりゃの死から完全には立ち直れていない。いまだに心が苦しくなる。
 
 先に帰ったカミサンから電話。きゅーが全然ゴハンを食べていないから病院に連れてゆくという。診察結果はそのう炎、人間でいう胃炎だとのこと。なぜ急にそんな状態になったのかがわからないと先生も首を傾げているらしい。数日入院することになった。
 
 二十三時、帰宅。なんだか仕事が忙しい一方できゅーを心配しつづけていたせいか、今ひとつリズムがつかみきれなかった一日。
 
 野坂昭如「マッチ売りの少女」。お涙頂戴な内容なのだが、この人が書くと人間の欲望を突き抜けた先にある原罪のようなものまで見えてきてしまい、悲しさが完全に崩壊してしまう。これが描写のなせる技。
 
 
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四月九日(金)
「心配なトリ2」
 
 八時起床。朝日がやわらかに輝く四月らしい空模様をきゅーにも見せてやりたいが、入院しているのだからそれは叶わぬ。ぷちは陽射しを浴びてご機嫌そうだ。だがやはり少々寂しさを感じているのか、猫が近づいてくると大げさなくらいに喜んで鼻面やしっぽをつついてみたりしている。猫たちはマイペースでいつもと変わらぬ表情でひなたぼっこをしたりウンコやシッコをしたりしている。きゅーがいないことを、どれくらい気に欠けているのかはよくわからない。
 
 九時、事務所へ。O社企画、D社企画など。今日は事務所にこもってひたすら仕事に没頭。それではアタマがパンクしてしまうので、気晴らしに小一時間ほど外に出て髪を切ってきた。
 二十一時、店じまい。残りの仕事は土曜日にやることにした。異常な疲れを感じたので夕食は焼き肉にしてエネルギーを蓄えた。
 
 仕事ばっかりしてたので、本はほとんど読まなかった。仕事の資料だけ。
 
 
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四月十日(土)
「心配なトリ3」
 
 午前三時、電話が鳴る。夜中の突然な電話はいたずらか不幸の知らせと相場は決まっている。一瞬どちらかと考えながら受話器を取ると、トリの病院からだった。きゅーの容体が急変し、意識は途絶えがちで血便が出ているらしい。土曜日の午前中は往診で不在だが十二時には帰るから、そのころに一度病院に来てほしいといわれる。眠気など消し飛んでしまった。先生の言葉、ひとつひとつを頭の中で具体化し、きゅーの姿を想像してみる。出てくるのは絶望的な姿ばかりだ。ぼくの掌の中で静かに逝ってしまったうりゃ君の姿ときゅーの姿が重なり合う。ニンゲンとは、嫌なことほどリアルに想像力が働くものらしく、最悪の事態のことばかりを考えてしまった。お昼に先生のところに伺って話を聞くしかない、そのときまできゅーが生きていればいいが。朝まで、うとうとしてはおかしな、そして不快な夢で目が覚める状態を繰り返した。熟睡はしていない。できるわけがない。
 
 八時三十分、起床。暖かな陽射しのもとで身支度し、これくらい天気がよければきゅーの容体もよくなるさと考えながら事務所に向かう。九時三十分。一時間少々、気持ちを切り替えて仕事を進めてから、ぷちぷちを連れたカミサンと合流して都立家政のトリの病院へ。ぷちの姿を見ればきゅーも元気になるに違いないという配慮から連れ出してみたのだが、ぷちは外出しなれていないので緊張しているようだ。こっちも緊張している。ひょっとすると心境は同じなのかもしれない。ぷちも本能で何かを感じているのか。
 
 十二時、病院へ。きゅーはまだ大丈夫だった。先生の話では、なんとか血便は止まりつつあるが、おそらく内臓に潰瘍ができているのだろう、とのこと。ぷちをきゅーに見せてやると、それまでウトウトと眠るようなしぐさをしていたきゅーはたちまち一変、元気になってぷちのほうへ寄っていこうと暴れはじめた。先生、驚いている。「夕べは外に出ようとするんですが、羽根を開くとそれが閉じられなくなってしまったり、足に力が入らなくて止まり木から降りてしまったりしていたんですけどねぇ……」
 元気が戻ったのはいいことだが、強制給餌でしか栄養を摂取できていない点が問題。自力でゴハンを食べることができないのだ。恢復にはまだ時間が必要らしい。もう数日、入院させて様子を見ることにした。
 
 安心したらひどい頭痛に襲われた。身体が泥になったように疲れ、もう仕事なんかしてられない。そうそうに帰宅し、一眠りすることに。残った仕事は明日にまわす。
 
 十五時、帰宅。アイスクリームを食べてから横になる。少しだけ、と思ったら十九時を回ってしまった。うす暗い中で花子にゴハンをしつこくねだられて目が覚めたので、朝が来たのかと錯覚してしまう。状況を理解するまでに、つまりきちんと目が覚めるまで十五分くらいかかっただろうか。昼夜が逆転した気分だ。 
 
 夕食はピザ。つくる元気はさすがにない。
 
 金井美恵子『噂の娘』。大人の世界を垣間見る小学生の少女。モノについての描写が徹底していることに今さらながら気がついた。大人が使う道具を丁寧につづることで、大人の世界をリアルに表現し、かつそれを少女の目から見ていると設定することで異化作用――少女にとって「知らない世界」であったことを読者に伝えること――を生じさせようとしているのかも。うまいなあ。
 
 
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四月十一日(日)
「ちょっと話がそれました」
 
 八時三十分起床。昨日よりはややはっきりしない、薄いガスに満ちた空。青みは消え、薄鼠色の雲ばかりがつづいているがその雲はさほど厚くはないようで、陽の光が透けて弱々しく広がっている。こんな光でもうれしく感じるらしく、ぷちぷちは今朝も大騒ぎだ。光は時折雲の隙間から明るく射すように部屋へ入り込むと、猫たちはすかさずそこにできた陽だまりに身体をまかせ、ゴロゴロとひなたぼっこをはじめる。
 
 昨日からの邦人誘拐事件、どうやら解放される方向で話が進んでいるらしい。いいことをしているのにひどい扱いをされたんじゃ、かなわないなあ。こういう問題には、国際政治もクソも最後には関係なくなるのかもしれない。日本が憎くても、日本人、いや個人に憎しみは向かわないのだ。戦争が大量に殺人するのは、個人ではなく民族という無個性だ。団体性はあっても、個性としては捉えられない。だから殺してもへいちゃらなのだ。悲劇とは、大量殺人を個人の生として捉えたときに生れる。殺人を、死んだ人の数だけで悲劇と考えてはいけない。と、ちょっと話がそれたかな。 
 
 九時三十分、事務所へ。休日出勤。E社パンフレットの構成とコピー。内容が複雑なので苦戦した。二十時、店じまい。 
 
 金井美恵子『噂の娘』。母が入院し、美容院に引き取られることになった主人公の少女。美容師たち、すなわち大人たちとの共同生活がはじまる。
 
 
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四月十二日(月)
「さようなら。きゅー」 
 
 安心しすぎていた。だから最初はすんなりと事実を受け容れることができなかった。
 きゅーが亡くなった。
 十二時四十分、病院で死亡確認。最後を見取ってやれなかったのは本当に悔しい。 
 カミサンといっしょに病院へきゅーを迎えに行った。月並みな表現だが、きゅーの顔は本当に安らかだった。今ごろはうりゃ君と会って元気だったころとおなじようにふたりで飛び回っているのかも、と考えると涙が出そうになった。人前だから耐えた。耐える必要なんてないのかもしれないけれど。
 しばらく住んでいた籠の中で休ませてあげた。ぷち、花子、麦次郎に別れの挨拶をさせる。動物は本能で悲しむ。だから悲しみは深く、深すぎてぼくらには捉えきれない。きゅーは、うりゃが先に逝ってしまったときにおなじ、いやそれ以上の悲しみを背負ってしまったのだろう。あいつとうりゃの結びつきは、ほかの動物たちのそれよりもずっと固く、深く、強かった。ぷちが一年前のきゅーのような悲しみに捕らわれなければ、と切に願う。
 
 夜、きゅーを埋めてあげた。うりゃ、はち、ポンが埋まっている木のそばにした。大好きだったイチゴ、菜っ葉、ゴハンをいっしょにいれてやった。ほんとうに、ほんとうにあの世で、カミサンがいうところの「虹の橋」の上で、うりゃたちと仲よく、元気よく遊んでもらえればと思う。
 さようなら。きゅー。
 
 
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四月十三日(火)
「違和感」
 
 拍子抜けのした朝。きゅーがいなくなった喪失感より、きゅーがいないことの違和感を強く感じる。いなくて寂しいのではなく、いないことがおかしい。いなければいけない。なのに、いない。そんな感覚。
 
 午後から取材。戻ってから黙々とコピーを書き続けていたら、午前三時になってしまった。四時、帰宅。五時過ぎ、就寝。
 
 
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四月十四日(水)
「一日が早く過ぎていく」
 
 眠い。が九時過ぎには起きて十時には事務所に向かいバタバタしているうちに外出し打ち合わせのあとに雨の中労働基準監督署に行って事務手続きをして担当の女性に腹を立てたり昨日取材のときに壊してしまったお気に入りのロットリングの多機能ペンの替わりを買ったりカミサンが個展のときに使うからというので200万画素カメラ付きケータイを買いに行ったりしていたらあっという間に夜になって眠くなったからもうすぐ寝るつもり。
 
 
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四月十五日(木)
「緩い谷間」
 
 うりゃときゅーがブンブンと飛び回っている。そんな夢を見た。天国に着いたという報告だろうか。
 
 八時起床。九時、事務所へ。春の呑気な陽射しと緩い風がよく似合う、仕事の谷間の閑な一日。午前中に一本軽く打ち合わせをしてから事務所に戻り、少しだけコピーを書いてからまだ期限まで間のある企画をちまちまと進める。二十時、店じまい。
 ハナミズキがあちこちで花開いている。だが、きれいだなあと思って眺めているのは、正しくは花びらではなく萼だか葉だかの変化したものらしい。白いハナミズキの花は、しゃもじが四枚くっついているように見える。
 
 田久保英夫「蜜の味」を読む。腐った果実に重なり合うのは、愛欲と年老いた母というふたつのイメージ。そのせめぎ合いというか、ぴんとの揺れ具合の妙。
 中上「赤髪」を読みはじめる。「赤」は、正しくは赤偏に赤。赤がふたつ。
 
 
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四月十六日(金)
「緩くない一日」
 
 八時起床。今日も天気は暖かで呑気でユルユルなのだが、それを満喫するほど閑じゃないのが少々残念。午前中にサササと作業をし、慌てて午後外出。E社でパンフレットの赤字戻し。全部作り替えになってしまった。打ち合わせの所要時間、三時間。バテる。
 
 帰社後は赤字対応に集中。誌面構成から考え直さなければいけないのでタイヘンだ。二十二時過ぎ、集中力が途絶えたので帰宅。残りは明日に。
 
 中上「赤髪」。これも舞台は路地らしいが、路地特有の閉塞的な世界観はない。短編だから、そんなものは必要ないのかな。
 
 
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四月十七日(土)
「バカバカしくて、いいですね」
 
 八時三十分起床。天気がよいからぷちぷちはご機嫌なようだが、カミサンは時折ぷちがきゅーを探したりするところを見たという。きゅーが死んでしまったこと、もう買えって来ないことは理解できていないのかも。喪失感で立ち直れなくなるまえに、新しい友だちを連れてきたほうがいいかもしれない。
 
 十時、事務所へ。昨日の作業の続きを黙々と。昼食は近所のアジアン料理店「ぷあん」で。ココナッツミルクカレー風味のナントカというタイのそばを食べた。コクと香り、そして辛さが複雑な味わいを醸し出している。甘いものと辛いもの、普通なら不協和音になるかななんて思うところだが、そうならないのだからタイ料理というやつはスゴイと思う。
 十八時、作業終了。帰宅。
 
 夜、テレビで「少林サッカー」を観る。バカバカしくて、いいですね。 
 
 中上「赤髪」読了。主人公のところに転がり込んだ素性の知れない女との、セックスに明け暮れる日々。中上は生の、そして性の絶頂の瞬間を切り取ることで、先の見えない袋小路にぶつかってしまった人間たちの視野の狭さ、性と生の閉塞感から生れる快楽を描こうとしたのかもしれない。
 
 
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四月十八日(日)
「休日頭痛」
 
 休日になるとひどい頭痛に襲われるニンゲンが増えているらしい。休日頭痛というらしい。働きづくめの人に多いらしいのだが、確かにぼくも働きづくめの感があるから、土日は頭痛に悩まされることが多い。しかし働いている最中も「おーあたまいてえ」とぼやきながら考えたり文章を書いたりしているのだから、休日頭痛というよりはぼやき頭痛だ。今日の場合は、ひっさびさに休めるというのにシャツ七枚も溜めちゃったアイロンあてるのに一時間はかかるぜめんどくせーなとか、そういったごく日常的な、いわゆる「家のこと」をあまりに多く溜めすぎてしまったがためのぼやきからくるストレス性の頭痛であるから質が悪いし情けない。頭痛で夜中に目が覚めた。そんなぼくに気を遣っているのか、花子はゴハンをねだろうとしない。おかげでじっくり寝ることができたが、じつは寝過ぎること、つまり必要以上に睡眠を取ることは頭痛にはよくないらしく、したがって花子の気配りはぼくには逆効果になりかねなかったのだが、午前十時の遅い朝日と元気なぷちぷちの鳴き声を聞いたら頭痛が消えた。まあ、そんなもんだ。頭痛持ちだからって、あれこれ考えすぎたりしてもしかたないってことだ。
 
 午後よりカミサンと外出。八重桜が盛りである。いや、散りはじめたから盛りを過ぎたあたりということか。重たそうな花から、目を刺すような明るいピンク色の花びらがバラバラと散り、くるくると複雑に回転しながら風に乗って目の前を通りすぎたり垣根を越えて道路を舞ったりしているのを眺めた。路肩にはソメイヨシノの散り際のときよりもはるかに多い量の花びらが、層を作るように重なり、積もっている。道路の真ん中あたりにもかなりの花びらが散っているが、風が吹くとアスファルトの上で花びらは一斉に踊りはじめ、おなじ方向へくるくると回転しながら流れてゆき、風が塀に当たったりすると、その空気の流れの乱れを教えてくれているかのように、渦を巻いたり舞い上がってからもう一度落ちたりを繰り返している。血潮のようだ、とぼんやり思う。
 無印良品でカットソー二枚。ルミネの文具店でメガネケース。西友で豆腐、ねぎ、ショウガ、豆鼓など。ペットショップでぷちぷちの友だちを探してみるが、心魅かれる子がいなかったので買わずに帰る。動物を買うときは、一目惚れに似た感覚が絶対に必要だ。買う、すなわち飼うことになれば、その子を生かすために自分の時間を削らなければならないからだ。いいかえれば、買った/飼った子には自分の命を分け与えなければならない。だから、安易な気持ちで買う/飼う子を選んではいけない。動物を飼うという決意、この店なら信頼できるという最低限の条件、そして恋のような感覚、これらが絶対に必要なのだ。 
 
 夜、ぷちぷちが遊べかまえと大騒ぎするので、昔うりゃうりゃがよくそうしていたように、一緒に風呂に入ったらたちまちアイツめパニックを起こし、シャワーに突進したかと思うと湯船に墜落、ずぶ濡れになってしまった。すぐに風呂から出すが、しばらくはショックで動けなくなってしまっていた。ああ、悪いことをした。
 うりゃとは独身のころからよく一緒に風呂に入った。ぼくが湯に浸かり本を読んでいると、ヤツは半分だけ閉めておいた風呂の蓋の上でゴキゲンに飛び回ったり、水道の蛇口をつついてみたりして遊んでいた。これが普通だと思っていたからぷちも喜ぶかと思ったのだが、どうやらうりゃが特別だったようだ。そういえば、きゅーと二人きりで風呂に入ったことはない。うりゃ、きゅー、ぼくの三人でならあるのだが。
 
 最相葉月『絶対音感』。音階と音律の違い、ピアノとそれ以外の楽器の周波数の違い。どうやら絶対音感とはときに音楽家の障害になることがあるらしい。
 金井美恵子『噂の娘』。最近の作品は一文がやたらに長いものが多い。数千字にわたってマルがないのなど当たり前だ。それだけ描写が丁寧だということなのかな、と思っていたが、ひょっとすると金井は、描写すべき対象がほんの一瞬の姿であるものでも、エクリチュールによってその一瞬はいくらでも長く、たとえば数千字分以上に引き伸ばされる、逆にいえば一瞬の姿を言葉は一瞬で言い表すことができないという矛盾を抱えているという点を極限まで追求しようとしているのではないか。そう思えてきた。
 
 
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四月十九日(月)
「寝た/寝る」
 
 六時起床。八時から打ちあわせだ。早起きがプレッシャーになったのか、夕べはまったく熟睡できず。おかげで昼過ぎに事務所に戻ったときにはヘロヘロ、集中力も思考力もまったくなくなってしまい、もうこれはダメだと一切を投げ打ち、家に帰ってグースカと寝た。寝た。眠りつづけた。八時に起きた。晩飯食った。これから、また寝る。
 
 
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四月二十日(火)
「はたらきづくめ」
 
 働きとおし、おかしなタイミングでグースカと眠りこけたせいなのか、曜日感覚がなくなっている。八時、テレビのスイッチをオンにしたときに妙な違和感を感じた。「ズームインスーパー」が放送されているのはおかしいのではないか、という疑問が湧くのだが、それはやがて消え、つぎに「特ダネ」が放送されていて、おまけにコメンテーターに室井祐月が出ているのはおかしいのではないかという疑問が湧く。結局は「今日、働くのはおかしいのではないか」という疑問にたどり着くのだが、今日が火曜日であるのは否定の仕様もなく、仕方なく服を着て家を出る。
 夏日らしく気温はすでに高くなっている。身体がじっとりと汗ばむのを感じながら歩くと、次第に今日が平日なのだ、しかもまだ週の半分に達していないのだと実感できる。しかしその根拠がまるでわからないから厄介だ。平日は働かなくちゃいかんなんて、誰が決めたのだ。くそったれ。
 
 E社企画に集中。集中しすぎて目まいがしてくる。十月までいた西荻北二丁目の事務所は道路に面していてバルコニーがあったから気晴らしに外に出てストレッチ、なんてことができたのだが、今度の松庵の事務所はバルコニーはあるもののストレッチができるほど広くなく、おまけにすぐ正面には古い民家のモルタルの壁が見えるだけだからつまらない。少し散歩でもしようかと考えるが、靴を履くのが億劫だ。コピーの仕事ならまだしも、企画を考えるときは気晴らしの散歩が仇になることが多い。物事を言葉だけではなく、図や流れで考えなければいけないからだ。とっさのメモがしにくいのである。
 
 二十一時、店じまい。カミサンと「桂花飯店」で晩ゴハンを食べてから帰る。
 
 金井美恵子『噂の娘』。外人のエピソードやらおばちゃんのモノローグやらが挟まりはじめた。
 
 
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四月二十一日(水)
「眠るように」
 
 不思議な目覚め方。夜中に、ふいに目が覚める。夢うつつというのではない。だが夢の記憶は鮮明に覚えている。はてオレは今まで何をしていたのだろう。夢の中では同窓会に参加したりと妙に行動的だったが、一方で夢から覚めたオレはただ、眠りもせずに蒲団の中に寝転がっている。当たり前のことなのだが、それが大きな違和感になる。するとどんどん意識は冴え渡ってくる。あれこれ考えはじめるのだが、どうやら鮮明になった意識の果てには眠気というものがあるらしい。どこまでが自分の意識や思考で、どこからが夢となっているのかが今ひとつわからない。夢から覚めるときの境界線は明確なのに、逆の場合はひどくあやふやだ。
 うりゃうりゃは眠るように死んでいった。きゅーもハチも、おそらくそうだったのだろう。ぼくがいつのまにか眠りに落ちていたように、曖昧に死んでいったのだろうか。それとも、死の一瞬をはっきり意識したのだろうか。
 
 寝たり起きたりを何度も繰り返したが、七時にはもう眠ることに飽きてしまい、蒲団の中で麦次郎をつついたりして遊んでいた。八時に目覚ましが鳴る前に起床し、ぷちぷちを起こしてから身支度をする。今日も暑そうだ。空の青みが、気のせいかわずかに青味を増している。
 
 九時、事務所へ。午前中はE社企画のツメ。納品後は珍しくフリーの状態に。午後から税理士とちょっと打ち合わせをしてから、夕方にカイロプラクティック。十九時三十分には事務所を出た。個展の準備で忙しいカミサンは、一人事務所で作業。帰宅後は主夫となって晩ゴハンをつくる。ゴーヤチャンプル。
 
 久々に『トリビアの泉』を観る。爆笑。
 
 金井美恵子『噂の娘』。外人の話は、主人公が弟に読み聞かせている本の内容らしかった。十九世紀の植民地時代のお話らしい。貴族やら軍人やらが続々と登場するその物語は、おばちゃんが話す世間話と対照的である反面、どこかでしっかりとつながっている。当然ながら金井もそれを狙って書いているはず。
 最相葉月『絶対音感』。絶対音感とは物理的な能力であって、音楽的才能ではないらしい。
 
 
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四月二十二日(木)
「初夏の感じ方」
 
 ばっちり寝ました。もうこれ以上は寝なくて結構。そんな気分で目覚める。八時。少々汗ばむ朝。蒸し暑さは感じないが、からっと乾いているわけでもない。昨日の気温は七月並みだったとニュースが報じている。今日も暑いらしいのは、天気予報を見るまでもない。
 
 九時、事務所へ。確かに夏のような暑さだが、空の色は夏と呼ぶにはほど遠い。うっすらと曇っていて、のっぺりと広がっている。濁った青さの空のもとで、ツツジの花がけばけばしいほどの鮮やかさで咲き乱れている。くっきりとした快晴がよく似合う色なのだが、と少々残念に思う。
 
 午前中は事務処理。午後より青山のJ社へ。その後、時間が空いたので新宿を少しだけぶらついて街行く人たちの服装から初夏を感じたりしながら時間を潰し、夕方恵比寿でカミサンと合流。明日から開かれる個展の会場である「ギャルリ カプリス」へ。最後の作品納品と、簡単な打ちあわせ。オーナーの目黒さんと少しだけ話す。
 
 二十時、帰宅。歩きすぎて疲れたせいか、ビールを飲んだらよっぱらってしまった。
 
 富岡多恵子「遠い空」を読む。読了。一九五〇年頃の、性欲をもてあましてしまった聾唖者の悲劇。
 
 
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四月二十三日(金)
「苦沙弥」
 
 八時起床。見事、と思うほどにぽっかりと予定がないから笑ってしまう。気が抜ける。気が抜けるとたちまち体調が悪くなる。例の週末頭痛や腹痛に来るのかと思ったら今回は花粉症だ。ぼくはスギ花粉はヘイチャラなのだが、どうやらヒノキだかブタクサだか、スギの後に来る花粉に対し免疫がないらしく、毎年ゴールデンウィーク直前あたりになると鼻と目が過剰に潤ってくる。今年の潤いかたは尋常ではなく、潤いの爆発、すなわち苦沙弥――おっと違ったこれは『猫』の先生の名前だ――じゃなくてクシャミも止まらないので夕方には医者に行こうと思っている。
 
 九時、事務所へ。見積と帳簿付けをしていたら午前中があっという間に過ぎてしまった。午後よりチラリと外出。吉祥寺パルコの「ワイズフォーメン」に、壊れてしまったカバンを修理に出す。チラリと新作も見る。やはり若者向け過ぎるというかなんというか、昔ながらのワイズのテイストしか受け容れられないオッサンたちには手を出せない、ということが店員さんたちもわかっているらしく、めずらしくほとんど勧めてこなかった。
 地下の「リブロブックス」で、加藤典洋『テクストから遠く離れて』『小説の未来』、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見11 事件の深層』『同13 男と女 結婚・エロス』を購入。『テクストから――』は、『群像』の連載で読んでいたけれど買っちゃった。それくらい画期的な内容だということ。
 
 夕方、事務所へ戻る。事務処理を終わらせてから、珍しく十七時に店じまい。内科医院に立ち寄り、花粉症の薬を処方してもらった。
 
 カミサンが今日から個展で忙しいので、今夜もぼくは主夫モード。カレーを作っておいた。豚バラ肉のカレー。
 
 村上龍「OFF」を読む。読了。傑作。デリヘル嬢の異常な日常と孤独な記憶を、やや異常な文体で一気につづっている。やや異常、という感覚が、妙なリアリティを生み出している。
 古山高麗雄「セミの追憶」を読みはじめる。太平洋戦争の記憶。従軍慰安婦、性、軍隊の異常な「いじめ」的しきたり……。そんなものの間を埋めていたはずの、人の名前や顔といった記憶が欠落しはじめている、年老いた主人公のモノローグ。過去を淡々と語っているのだが、その淡々さが悲しさを虚無感を生み出している。読了したわけではないけれど、従軍慰安婦たちに向かって発射された精液が、戦争という名の虚無の中で消えていく。そんな印象を受けた。もちろん、そんな描写はどこにもないんだけどね。
 
 
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四月二十四日(土)
「豆大福ふたたび」
 
 八時起床。明るく晴れ渡っているが、季節外れの寒波が日本列島を覆っているらしく、気温は低い。次第に雲が厚くなっていくのが部屋の中からでもわかる。
 早起きする必要はないのだけれど、個展の会場に朝から行かなければならないカミサンに合わせて身支度をはじめた。一日読書三昧と思ったが隣の新築マンションの工事は生憎休みではないらしく、ギーギーとかガシャンとかガラガラドッカンとか何かとやかましいので事務所で本を読むことに。
 
 十時過ぎ、事務所へ。『群像』に掲載されていた小難しい文学評論を黙々と読みつづける。
 
 昼食は「ビストロさて」へ。ツナのコロッケランチを注文。素人には出せない、そしてお惣菜屋さんでも味わえない上品な仕上がり。向かいの席で、おばあちゃん、母親、そして一歳くらいだろうか、よだれかけを付けている子どもが楽しそうに会食している。化粧っ気も洒落っ気もない母親はこの辺りでエコとモラルを守ることを信念として暮らす典型的な中央線的教育ママと見た。子どもは妙に口が達者で赤ちゃん言葉ではなく、比較的多めの語数と歳のわりにはしっかりした文法で親たちと話をしている。テーブルに肩ひじをついて母親に何やら要求している姿がオッサンくさい。だがその要求が受け容れられないとすぐに泣くから、やっぱりガキだ。
 十四時、退屈してきたので吉祥寺へ.「ワイズフォーメン」ウールギャバのワイドパンツを買ってしまった。アホ。
 また事務所に戻って読書。夕方、事務所の寝袋で少し寝る。
 十九時三十分、「西荻牧場ぼぼり」のアイスクリームをもって高円寺へ。カミサンと合流し、テディベア作家小林きのこさん宅にお邪魔し酒を飲む。きのこさん、ご主人のケントさん、カミサンのホームページの掲示板の常連であるヤムヤムさん。出していただいた日本酒がうまいのなんの。今日は来られなかったくみぷり。さんのアイカタさんが経営するパン屋さんの特製パンと不思議と相性がいいので驚く。パンと日本酒。パンとワイン、となると外人ぽいというか、ナザレのキリストみたい――偏見だよな――な感じだが、パンと日本酒となるとイメージがさっぱり湧かない。よくいえば日本酒の融通無碍な面を活かしているということ。悪くいえば、日本の食文化への冒涜。まあ、いいや。
 豆大福、千歳飴、胡桃餅と、きのこさんご自慢の超個性的な猫たちも元気だ。ただ、全然姿を現してくれない。相変わらずぼくは猫たちに嫌われていると痛感する。
 
 〇時帰宅。珈琲を飲んでから寝る。
 
 
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四月二十五日(日)
「無条件降伏」
 
 八時起床。今日も気温は低いようだが、空の色は春らしい霞みがかった青色で、冬物をもう一度引っ張りだして着る気になど到底ならないのだが、よくよく考えるに今日は予定がまったくないので一日中ジャージを着たままでも構わないし、このマンションは気密性が高くて室内の温度は外の温度にさほど影響されないのだから気温など気にする必要などまったくない。猫たちは、ああ春らしい陽射しだなあなどと呑気に考えていそうな面持ちでひなたぼっこを楽しんでいる。ガラス窓越しに射す陽光に、冷たさは微塵も感じられない。
 
 十時過ぎ、カミサンは個展会場へ。ぼくは自宅に残り、『群像』をだらだらと読み続ける。ぷちぷちが遊べ遊べとうるさいのでカゴから出してあげたら、ずっと肩の上に留まったままで動かない。動けと言ってみると怒り出すのだから、この子は人の肩の上が好きなのだろう。ほったらかしにして本を読み続ける。
 読書のほかは、アイロンがけなど。 
 
 十四時、睡魔に襲われた。抵抗せず睡魔に無条件降伏。パタリと寝た。幼稚園がおなじだったマツシマカッチャンと中学の同級生のナベちゃんがサッカーをする夢を見た。夢は短かかったと思うが、気づけば二時間が過ぎていた。横には麦も花もいる。こいつらも睡魔に無条件降伏したらしい。
 
 十七時過ぎ、カミサンから電話。kaoriさん夫妻と西荻で食事しようというお誘い。慌てて身支度して駅前の喫茶店「日月潭」へ。みんなと合流してから「トラットリア・ダ・キヨ」で夕食。真ダコのマリネ、きまぐれサラダ、イカスミのスパゲティ、桜鯛のドライトマト焼、仔羊のフィレ肉バジル風味、エスプレッソ。ご主人とはじめて会う。ドラえもんマニアらしい。食事が終わってから一時間以上おしゃべりしてしまう。学生のときに珈琲一杯で何時間も喫茶店に粘ったときのような気分。
 
 二十三時、帰宅。鼻水が止まらん。
 
『群像』のほかは、金井美恵子『噂の娘』、『戦後短篇小説再発見2 性の根源へ』のあとがきなど。
 
 
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四月二十六日(月)
「ネッチョンネッチョン」
 
 L社の編集室に顔を出したら大量の葡萄をいただいた。という夢を見た。きっと夕べkaoriさんから「フランスには葡萄をネッチョンネッチョンにしたものを身体に塗ったり葡萄ばかり食べたりを何日も繰り返す葡萄エステみたいなのがある」という話を聞いたからだろう。だったら葡萄がネッチョンネッチョンの夢を見てもおかしくないのに、ただ葡萄をもらうだけとは、ぼくの深層心理も無意識も想像力というか創作力が貧困だ。
 
 八時起床。鼻水がネッチョンネッチョンで止まらない。ぼーっとしていると鼻腔の中に洟が溜まってネッチョンネッチョン。洟をかむとティッシュがネッチョンネッチョン。油断するとティッシュから洟がはみ出して手がネッチョンネッチョン。
 
 九時、事務所へ。午前中は事務処理。本当に事務処理を溜め込んでしまっていたので、いくらやっても終わらない。
 午後からは読書などしてのんびり過ごす。一日中事務処理なんて、ぼくにはとても耐えられないからだ。夕方より外出。十七時、渋谷のE社へ。新規案件の打ち合わせ。詳しくは書けないが、ぼくとは遠く遠くかけ離れたジャンル。
 外出中はなんともなかった鼻が、事務所に戻るとズルズルになって鼻腔がティッシュが手がもうなんだかよくわからなくなるくらいにネッチョンネッチョン。
 
 二十時、帰宅。こうして日記を書いている今も鼻水が止まらない。ネッチョンネッチョン、いつまでつづくんだろう。
 
 大江健三郎『万延元年のフットボール』を読みはじめる。学生の頃に読んだのだが、内容をさっぱり覚えていなかったことに愕然としたため――覚えていたのは、主人公の友人が頭を赤く塗って全裸で尻の穴に胡瓜を刺して縊死したことと、主人公の弟の名前が「鷹四」という、絶対にないようなものだったことだけ――、もう一度読むことにした。読んでない本は山ほどあるけど、やはり戦後日本文学を語る上で重要な作品ですからね、これは。ま、別にぼくが戦後日本文学を語る必要はないんだけれど。忘れないように、冒頭の部分をちょっと引用。気合入りまくり。
   ★
 夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手探りする。内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躯の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。力をうしなった指を閉じる。そして、躯のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような、躯の各部分において鈍く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び轢きうける。それがいったいどのようなものの、どのようなときの姿勢であるか思いだすことを、あきらかに自分の望まない、そういう姿勢で、手足をねじ曲げて僕は眠っていたのである。
 
 
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四月二十七日(火)
「ネチョリンコン」
 
 三時四十五分、花子に起こされる。やかましいので口ふさぎの意味もこめてゴハンを与えてしまった。口ふさぎではなく、甘やかしともいうのだろう。小さな甘やかしの連続が、真夜中のゴハンへとつながってゆく。そのうちボケ老人のように夕ゴハンを食べた直後に朝ゴハンをくれと騒ぎだすかもしれない。
 
 八時起床。今朝も鼻腔はグッチョングッチョンのネチョリンコンだ。先日医者で処方してもらった薬はまったく役立たずである。
 外は雨。晴れたり曇ったりと忙しく表情を変える空のもとで小雨がぱらついている。
 
 九時、事務所へ。大慌てで仕度して十時三十分、小石川のL社へ。N社パンフレットの打ちあわせ。Zさんが乱入してきた。ベッケンバウアーとプラティニの話ですこしだけ盛り上がる。みんなサッカー少年だったらしい。
 
 十二時、新宿の紀伊國屋へ。仕事の資料を数冊購入。小説の類は買わなかった。
 
 十四時、事務所へ。ネチョリンコンな鼻腔は打ちあわせや移動の最中は不思議とネチョリンコンでなくなるのだが、事務所に戻るとたちまちネッチョラネチョネチョのネチョリンコンに戻ってしまう。ゴミ箱の中はティッシュでいっぱいになり、雪化粧したように白い。ネチョリンコンの雪化粧。風流でもなんでもない。仕方なく点鼻薬を指して誤魔化してみる。洟は止まるが、鼻腔に目の詰まった金網を取り付けられたような感じがする。息はかろうじて通るが、それがいかにも金網ごしに、という抜け方でとてもイライラする。夕方、堪らなくなりふたたび医者へ。薬きかねーぞと文句をつけたら、もっとキツイのを処方してくれた。継続使用はまずいらしい。調剤薬局に処方箋を持っていったら、ステロイド系の抗アレルギー剤だと言われた。以前は眼圧が少々高くてステロイドは緑内障を誘発する恐れがあるのでご法度だったことを思い出したが、今は正常値のはずなので大丈夫だろう。薬は明日から飲むことになる。点鼻薬ももらった。これはすぐに指してみる。よくわからん。
 
 二十時、帰宅。ぷちぷちと風呂に入る。
 
 大江『万延元年』。二重三重に折り重なる回想。テクニカルだなあ。でも、頭で考えすぎた小説という感じは否めない。自然に出てきた言葉ではないから、随所に表現の無理を感じてしまう。
 
 
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四月二十八日(水)
「ズビズバ」
 
 江戸時代にタイムスリップする夢を見た。階段から滑り落ちたら現代に帰ることができた。
 
 八時起床。昨日の嵐は夜のうちに収まったようだが、空はすっきりと晴れ渡っているわけではない。曖昧な青空に、勢いよく形を変えながら流れる昨日の空の雲のイメージが重なる。
 花粉症、朝はまだネチョリンコン。昨日処方してもらった薬を飲む。
 
 九時、事務所へ。N社パンフレット。鼻の状態はネチョリンコンからズビズバに変わりつつある。だがつまり気味なのは相変わらずだし、かめば大量の洟が出る。
 十二時、しまちゃんが遊びに来る。しまちゃん、カミサン、ぼくの三人で「えんず」でランチ。猫話で盛り上がる。
 午後からはしまちゃんが勉強中だという気功整体みたいなものをやってもらう。不思議なことに、躯のあちこちが熱くなっては冷えたり、痛んではすっと痛みが消えたり、痒くなったりと、異変というか反応というかを繰り返している。これが効いている証拠らしい。終了後、鼻がすっきりと通ってきたのにはびっくり。この日記を書いている今は少々つまり気味だが、朝とは比較にならないほど楽だ。
 
 夕方、吉祥寺へ。「ワイズフォーメン」で裾上げしたパンツを受け取る。山本耀司氏の紫勲章の件が話題になる。店員のO君、自分のことではないが鼻高々な気分だと語っていた。愛社精神か、崇拝か。
 
 二十一時三十分、帰宅。夕食はうどんであっさりと。 
 
 大江『万延元年のフットボール』。空港で弟の帰国を待つ主人公。
 
 
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四月二十九日(木)
「祝日の名前」
 
 みどりの日。新緑の萌え出すこの季節に相応しい休日名だが、昔は天皇誕生日だったのだから現天皇の誕生日も崩御後は改名されるのだろうか。俗っぽく言えばあの日はクリスマスイブイブであるが、それが祝日名になる可能性はまったくない。季節や自然にからめた名前になるのだろうが、本格的な冬を迎える直前、年末の忙しさを迎える直前、クリスマスの直前という曖昧なタイミングに最適な名前などあるのだろうか。
 
 八時起床。初夏とまではいかないが、少々汗ばむ陽気にゴールデンウィークらしさを感じる。ああ、暑くなってきたなと感じる最初の日、それが毎年この「みどりの日」や憲法記念日の頃だ。街中にジャスミンの甘い香りが漂い、ツツジが毒々しいピンク色の花を咲かせている。ジャスミンの香りは朝のちょっと冷たい空気と淡い青空がよく似合う。ツツジの花は、初夏を思わせる濃く力強い青空がよく似合う。
 
 九時、事務所へ。N社パンフレット、O社リーフレットなど。ヤフーで情報をチェックしていたら、タツノコの「新造人間キャシャーン」がブロードバンド配信されているのを発見。仕事が一段落したところで二話ほど視聴してみた。公害に頭をかかえる社会に現れた狂ったアンドロイドが敵らしい。おまけにキャシャーンは地球に優しい太陽エネルギーで動くらしい。絵柄やキャラクターデザイン、ストーリー展開は稚拙だが、環境問題――当時は「公害問題」として捉えられていたはずだ――を取り入れた世界観はなるほど今見ても古さを感じない。宇多田ちゃんの夫が映画化した、その気持ちや思い入れがよくわかる。
 
 十七時、個展会場にいたカミサンと合流。伊勢丹のバーゲンを覗いてみるが、不発。荻窪でちょっと買い物をしてから、「味彩」で食事してから帰宅する。数年ぶりに入ってみたが、味が落ちてしまった。メニューも中途半端にエスニック性を強めた創作料理に変わっている。それがおいしければ文句はないのだが、日本風のアレンジが陥りがちな中途半端さばかりが目についてしまい、満足できない。残念。
 
 二十二時、帰宅。ぷちぷちといっしょに風呂に入る。
 
 大江『万延元年』。弟の帰国。「新生活」に心揺れる主人公。
 
 
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四月三十日(金)
「花子、消える/失われた平常心」
 
 八時起床。連休の狭間の平日だからあまり働く気もせず働いている人も少ないのではないか、などと考えながら九時、事務所へ。いかにもゴールデンウィークらしい青空と、ちょっとフライング気味の初夏の日がさらにやる気をそいでくれるのが、ありがたいのかありがたくないのか。
 
 十時、B社のGさんとN社パンフの件で打ちあわせ。
 日中はO社のアイデア出し。十七時、デザイナーのUさんと打ちあわせ。はじめてお会いする人だが、しっかりタッグを組めそうだ。
 
 二十時、カミサンが個展に遊びに来てくれた小林きのこさん夫妻を連れて事務所へ。近所の居酒屋「えんづ」で飲む。
 
 二十三時三十分、帰宅。玄関で麦次郎が出迎えてくれた。が、花子がいない。グースカと眠りこけているのかと押し入れやクローゼットの中を覗いてみるが、姿が見えない。どこにいるのかな、という気持ちが少しずつ不安へと変化してゆく。「はなー、はなー」と夫婦ふたりで連呼するが、気配がない。麦の挙動もすこし変だ。青い瞳の奥に不安が見え隠れしている。「花子さんは昼間からいません」と言いたいらしいのではないか。ベランダを探す。お隣のベランダも覗きこんでみるが、やはり姿はない。玄関から外廊下へ出て、わが家のある二階の外側を「はなー」と呼び続けながらくまなく探す。玄関から外に飛び出したとすれば、いつものパターンだと階段をのぼって三階へ向かってしまうので、そちらのほうも探してみた。だが見つからない。もう一度二階の廊下を探してみる。エアコンの室外機の裏側などは絶好の潜み場所だ。覗きこむが、いる気配もいた気配もない。不安は最高潮に。踊り場から外を眺め、ふっさりした茶色い猫が茂みに隠れていたりしないか探してみる。だめか、と思って振り返り、一度マンションの周囲を探してみようかと思ったら、一階に降りる階段のところに花子がいた。かなり興奮している。シャーシャーと威嚇の声を出す。どうやら一階のどこかに潜んでいて、ぼくの声が聞こえたので恐怖と戦いながらもなんとかここまであがってきたらしい。大慌てで抱きかかえようとするが、拒否される。家に帰りたい気持ちはあるのだろうが、興奮しているので抱きかかえられること自体に警戒してしまうのだ。麦次郎と突然険悪状態になり、元通りになるまで一ヶ月もかかった「リフォームで喧嘩事件」の悪夢がよみがえる。猫不振だけでなく、人間不信にまでなってしまったら、そう考えただけでクラクラするが、今ここで絶望していても事態は変わらない。お出掛け用のキャリーバッグをもってきて顔のそばに近づけたら、ウーウーと唸りながらも大人しく入ってくれた。いたわりの言葉をかけながら家へ連れ込んだが、その間はいつもより二オクターブくらい高くて鋭い声で「ニャギャー」とか「キャオー」とか鳴き叫び続けている。聞いたこともないような調子だ。
 花子には気配がない。気づくと背後でちんまりしていることがあるので、踏んづけたり蹴っ飛ばしたりすることがたまにある。この気配のなさゆえに、カミサンが出かけるときに玄関からスルリと花子が抜け出したのにまったく気がつかなかったようだ。ということは、十二時間近く花子は外廊下に潜み続けていたことになる。廊下で遊ばせているときの態度から想像するに、最初の小一時間は廊下を探検するような気分で楽しみながらうろうろしていたはずだ。「帰れない」と気づいてからは、一体どうしていたのだろう。どこかに、おそらく最終的には一階のどこかだったのだろうが、潜み続けていたに違いない。帰りたいという本能と、帰れないという理不尽さと、外の気配や物音に対する恐怖、そして孤独とが重なりあって、こんな精神状態になってしまったのだ。家の中に連れ込み、取りあえず書斎に隔離するが、興奮状態は続いたままだ。kaoriさんにいただいたバッチフラワーレメディを水に溶いたものを精神安定剤代わりに霧吹きでまき散らしたり躯に降りかけたりし、落ち着くまで様子を見る。時折ドアの扉を少しだけ開けて覗きこんでみると、最初は目が合っただけで威嚇されたが、次第に平常心を取り戻したらしく、指を出すと顔を近づけて臭いを嗅ぐようになった。まだときどき「シャー」と言うが、まあニンゲンを受け容れはじめたのだからもう大丈夫だろう。部屋に入り、ゴハンを与える。
 小一時間も経つと、ニンゲンの気配がなくなると寂しそうに鳴くようになった。もう大丈夫。いっしょに寝てやることにする。残りの問題は麦次郎との関係の面だけだ。ニンゲンに対する態度から察するにおそらく今まで通り接してくれそうなのだが、念には念を、ということで、今夜いっぱいは顔を合わせないようにする。
 
 


  
 





《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。やはり飼っていたドウブツが死ぬのはつらいですね。

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