「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

二〇〇三年五月
 
 
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五月一日(木)メーデー
「トリにも漢方」
 
 八時起床。九時、事務所へ。O社プロモーション企画など。
 
 ゴールデンウィークは半分休んでいるが半分仕事しているような、ふしぎな雰囲気に街が包まれる。事務所のまえを歩く人々の表情は妙に柔らかく、うれしそうで、脱力気味だ。ぼくも仕事がさほど忙しくないせいか、その感覚に迎合しそうになる。それでいいのだろうな、と思った。
 古書店にて、島田雅彦『そして、アンジュは眠りにつく』購入。一九〇円。
 
 十七時すぎ、早めに仕事を切り上げる。帰宅してから鳥たちをつれて中野バードクリニックへ。なかなか体重が増えないきゅーを、もう一度診察してもらう。ついでにぷちぷちも健康診断してもらうことにした。きゅー、毎日投薬しているが体重が増えないので今日から漢方療法に切り替えることになった。漢方は、合う・合わないがはっきりしており、すぐに効かない性質のものであるため、一ヶ月程度様子を見る必要がある。これで元気になれば、と思う。ぷちぷちは、元気なのだが体内に菌がいることが判明。ただし、ほとんど動かず活動していないのだそうだ。早期治療が大切ということで、今日から投薬することにする。
 
 二十一時すぎ、帰宅。先日義母からいただいたタケノコ炊込みごはんを和風炒飯にして食べる。
 
 0時ごろから、急に気分が悪くなる。早めに寝ることにする。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。小学生の差別というか。いやイジメといおうか。誰もが通る道ではあるのだろう。しかし、あらためて小説という形で読むと、幼いころの自分を含め、子どもとはなんと残虐な生き物なのだろうと痛感する。
 
 
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五月二日(金)
「妖怪ゲロゲーロに取り憑かれたヒトビト(とドウブツ)」
 
 四時三十分、気分が悪くて目が覚める。ベッドの横では花子がご飯ちょうだいと大騒ぎをしている。缶詰めを開けなければと頭ではわかっているが、躯がまったく動かない。ちいさな使命感を感じ精神力で起きあがってみたが、そのままひどい吐き気を感じ、トイレに入ったらすぐに吐いてしまった。異様な臭いが立ちこめ、おれはなんてくせえものを腹のなかにつめこんでいたんだと唖然としつつも胃袋は依然激しくもんどり返りつづけ、第二弾、第三弾が発射されるときには、においなど構っていられないほどの苦しさに襲われ、頭のなかもココロもパニックになっていた。喉が痛い。大きな嘔吐と大きな嘔吐の谷間で口のなかの気持ち悪さを消そうと唾を吐いたら、少量だが血が混じっていた。どうやら急激かつ大量に吐いたせいらしい。花子のご飯はカミサンに頼み、その後も便所を独占してしばらく吐きつづけた。十分もすると落ちついたのでうがいをしたら、また吐いた。
 以降、八時すぎまで不快さゆえに熟睡できず、おかしな夢につつまれ、朦朧としつづけた。カミサンも六時くらいに吐いていた。どうやら夕べのタケノコ炊き込みご飯が痛んでいたらしい。夫婦そろってゲロ。おまけにインコのきゅーもゲロに悩まされ、花子は毛玉が溜まるとポコポコと廊下や部屋のなかに吐き散らすし、麦次郎は生来胃弱らしいので、しょっちゅう水ゲロをバシャバシャとまき散らしている。そんな状態だから、わが家は現在妖怪ゲロゲーロに取り憑かれているといってもいいだろう。退治が必要だ。
 
 八時三十分起床。吸血鬼には十字架とニンニクだが、妖怪ゲロゲーロには医者に処方してもらった薬が一番だ。九時三十分、事務所の裏にある西荻クリニックへ。症状を話すと、すぐに二階にある個室に移され、点滴を打たれた。ブドウ糖液に吐き気を止める効果のある薬品を混ぜ、それを体内に直接流しこむという作戦だ。小一時間、横になりつづける。その間、夢と妄想の合の子のような夢を見つづける。アタマは半分起きていたのだろう。考えていたことが、そのまま夢に直結しているのだ。処方箋をもらって帰る。薬局で薬をもらったら、アタマの薄い西村某が宣伝しているガスターをもらった。妖怪ゲロゲーロには、ガスターが効く。ただし、ニンゲンのみ有効。
 午後にはカミサンもおなじ病院に行った。夫婦揃って、なんだかなさけない。
 
 改めて事務所へ。Z社ウェブサイトのコンテンツ企画にとりかかる。体調ゆえに集中力がつづかないが、逆にこまめに外を眺めたりガムを噛んだり、上手に気分転換したら効率があがった。ほか、事務処理、カミサンのプランタン出品の準備の手伝いなど。二十一時、帰宅。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。ケンカと思春期。
 
 
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五月三日(土)憲法記念日
「似た者夫婦」
 
 憲法記念日である。憲法について考え、そのありがたみを感じるべき日なのだろうが、そんなことに一日を費やす人はどれくらいいるのだろうか。ちなみに、ぼくは微塵も憲法のことを考えなかった。
 
 十時起床。十二時、事務所へ。雑務、カミサンのプランタン出品の手伝いなど。十六時三十分、吉祥寺へ。頚椎ヘルニアの治療のためにぼくが通っているカイロプラクティックで診察を受けていたカミサンと合流。治療院で一、二を争うほどの悪さだったといわれたらしい。当面は通う必要がある。歯医者につづき。カイロもおなじ先生に面倒をみてもらうことになってしまった。似た者夫婦だ。
 
 十八時、義父母の家へ。義母が先日購入したノートパソコンのセッティングと基本操作のレクチャー。近所のファミリーレストランでうどんを食べてから帰る。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。第二次成長と中学生の性。
 
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五月四日(日)国民の休日
「憂いか馬鹿か」
 
 九時五十分起床。テレビではアトムをやっていたが、正直興味がない。アトムは陽の気が強すぎると思う。009のような、影と憂いのあるヒーローに魅かれる。あるいはとんでもない馬鹿の、いずれかだ。
 
 午後、吉祥寺へ。三台目の空気清浄機を購入。結露がひどく、窓や壁にカビが発生している書斎にも置くことにした。パルコブックセンターにて、埴谷雄高『死霊III』、アエラムック『現代哲学がわかる』など購入。
 
 帰宅後、トイレと風呂の掃除。つかれてそのまま熟睡。十九時に目が覚める。テレビで『サンダーバード』『ひょっこりひょうたん島』をすこしだけ観る。
 二十時、カミサンと合流。ごっつお屋で夕食をとってから帰宅。調子にのって生ビールやフライを注文したら、帰宅後下痢した。まだ躯は恢復しきっていないらしい。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。最終章「帝国の散歩道」。元魚屋のおかま、お経ばっかり読んでいるおばあさん、電波少年、不良少年、家出少年……。
 
 
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五月五日(月)こどもの日
「『帝国』を見つけたくなったよ」
 
 喉がカラカラで、ヒリヒリ痛む。どうやら部屋の湿気とカビを防ぐために夕べからかけっぱなしにした除湿器が、喉のうるおいまで吸いとってしまったらしい。風邪を引いたときとはまた違った感覚だ。明け方、花子にご飯を与えてからうがいをした。フリーズドライ食品になった気分だ。
 
 九時三十分起床。外は晴天ではないが、雨でもなく、寒くもない。なんだか中途半端な感じで、こどもの日という無邪気な祝日には似つかわしくないなあと思う。そういえば、わが家にはぷちぷちというこども(のインコ)がいる。ぷちのためになにかしようとは思わないが、こどもの日であることを知ってか知らでか――もちろん知るわけないのだが――、今日もぷちは元気に下品に石製インコ独特な声でギャースカと鳴きちらしている。
 
 午後よりカミサン外出。母親といっしょに、従姉の結婚式に出席するためのお衣装を買うのだそうだ。ぼくは一日、読書に徹することに。島田雅彦『忘れられた帝国』読了。日本の郊外都市という舞台に、「帝国」=「あいだ」としての存在(の暗喩)というコンセプトをもちこんだ手法は文学的にも新しい。文学とは発見によって成り立つ。ごく普通のありふれた生活のなかに「あいだ」を発見し、それを「帝国」と名付け、その「帝国」をすみずみまで突っつき、ほじくり返すことで物語が構成される本作品は、テーマの核心避けることによって物語を進める村上春樹の作品の対局にあるといってもいいと思う。最後からふたつめである第173章が、「帝国」のつきとめ方、感じ方を如実に表現している。変態少年と化していた主人公は、盲目の少女アンジュと出会い、彼女に恋することで黄昏少年へと変貌していく。ふたりのデートでの会話部分、引用。
 
   ★★★
 ぼくはデートの度に彼女にたずねる。彼女の帝国はどういう世界なのか。
 ――森がどんな色をしているかはわからないでしょう。夏の森の濃い緑や秋の紅葉も冬のやせ細った森や枯れ葉の色って知ってる?
 ――あなたは森の音や匂いがわかるの? 夏の森と冬の森は色が違うように匂いも音も違うのよ。
 ――青空ってどんな空か知ってる?
 ――青空の空気は澄んでいて、息をすると肺がピリピリするの。あなた、青空の匂いを知ってる? かすかに松脂の匂いがするのよ。
(中略)
 ――ねえ、もし目がみえるようになったら、、真っ先に何を見たい?
 ――何だと思う?
 ――そうだな。自分の顔? 三歳の頃の自分しか見たことがないんでしょ。
 ――自分の顔も見たいけど、目は顔についてるんだから見えないよ。あなたは鏡に映った自分を見てるんでしょ。私、自分がどういう顔か知ってるよ。私、父親似なの。それよりね、私がこの目で見たいのは太陽。太陽がなければ、私たちも地球もないんだもんね。次は砂漠かな。海はかすかに記憶があるの。太陽ってまぶしいんでしょ。まぶしいもの見たいな。星は頭を何処かにぶつけたときに見えるけど。そうそう、本物の幽霊も見てみたい。最初、あなたのこと幽霊じゃないかって思ったのよ。よく幽霊の気配を感じるから。テレビと幽霊って似てるのかしら。
 ぼくは彼女の話に耳を傾けながら、静かに目を閉じる。しばらくすると、耳が二倍の大きさになり、帝国にざわめきが満ちてきて、息をするとむせ返るほどに空気の密度は濃くなっている。
 
   ★★★
 晩ご飯はかた焼きそば。餡が足りなくなってしまったのと、買ってきたできあいの揚げ麺が餡の熱を冷ましてしまったこと、そして麺自体があまり美味しくなかったことが心残り。『チューボーですよ』風に評価すれば、★はひとつだけ、といったところだ。
 
 芥川の『開化の殺人』を読む。明治期の、知識人(医者)の殺人の告白。読了。つづいて『奉教人の死』を読む。長崎の切支丹の話。
 
 
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五月六日(火)
「さよなら保田圭」
 
 夜中、何度も目を覚ましてしまうが原因がさっぱりわからない。興奮しているわけでもなし。体調が悪いわけでもなし。しかも、日中睡魔に襲われたということもない。ひょっとすると、何度も目を覚ます夢を見ていたということか。わからん。
 
 八時起床。曇天。テレビでは荒川のタマちゃんのまぶたのあたりに釣り針がひっかかったというニュースをっくり返し報じている。連休明けの定番といってもいい、しあわせそうな家族の不幸な事故も多い。保田圭の卒業はあまり取り上げられていないようで、後藤真希のときとの待遇の違いが妙に悲しく感じられた。
 
 九時、事務所へ。O社プロモーション企画、Z社ウェブサイトのコンテンツ企画など。
 夕方、高校時代の同級生のLが事務所へ遊びに来る。今は中国人が経営するGISの会社で働いているが、担当しているのはGISではなく、日本向けに翻訳されローカライズされた中国の雑誌の制作、広告、販売などらしい。よくわからない世界の話をたくさん聞かせてもらった。ほか、ウチのカミサンのネコネタの話(出版すれば、といわれた)、ぼくと競作した絵本の話(自分の子どもに読ませたそうだった)、彼の会社の話など。二時間も話しこんでしまう。帰りに、カミサンが絵のお客さんからいただいたお菓子をおすそ分けする。
 残務を済ませ、二十一時帰宅。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』を読みはじめる。一度読んでいるのだが、今読みすすめている渡部直巳の評論で取り上げられているので、もう一度読みかえしたくなったのだ。たくさんの、たくさんのゴーストが登場する悲しい話だ。
 
 
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五月七日(水)
「平穏の弊害」
 
 八時起床。九時、事務所へ。O社ビジネス系サービス事例集など。
 
 びっくりするほど、何も起こらない平穏な一日。たまにはこういうこともあるもんだ。日記がおもしろくなくなるので、困る。-----
五月八日(木)
「穴がかゆい」
 
 寝苦しい。蒸し暑くて、喉と胸がつまる。午前二時、気がつくと寝汗をかいていたので窓をすこしだけ開けてからもう一度寝る。そのせいだろうか。明けがた、鼻の穴の内側がかゆくて眠れなくなる。なにかの花粉が部屋のなかにはいりこんだのだろうか。
 
 八時起床。天気予報は雨と報じている。リビングの窓を開けると湿っぽくて生暖かい空気が部屋のなかに流れ込んできた。苦手な天気だ。少々憂鬱な気分になりながら事務所へ。
 
 O社事例集など。雨が降りはじめたことが音でわかる。窓から外を見ると、街行く人たちが慌てて傘を開いている。かと思うと音はすぐ鳴りを潜め、もう一度窓の外を見ると、雨はほとんど降っておらず、人々は傘を差したままでいようか、閉じようかと迷っているように見えた。はっきりしない天気のおかげで、人の判断力もはっきりしなくなってくるのは困りものだ。
 
 ヤフーショッピングから、注文しておいた書籍が届く。奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』『浪漫的な行軍の記録』、金井美恵子『柔らかい土をふんで』。
 
 十四時三十分、カイロプラクティックへ。先日カミサンを診察してもらったのでお礼をのべる。カミサンは治療後、視界が広がり、さらに以前より明るく見えるようになったといっている。こういった現象はすくなくないというので驚く。帰りにパルコブックセンターにたち寄り、『群像』六月号購入。
 
 二十一時、帰宅。有楽町西武のヨウジヤマモトからDMが来ていた。今シーズンの商品、すべて出揃ったらしい。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。東でゴーストと出会い、慌てて西へと逃げるブッチとサンダンス。BA-SHOとの出会い。
 
 
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五月九日(金)
「現代の縮図みたいだ」
 
 八時起床。ときおりすずめが元気に鳴く声が聞こえてくると、ぷちぷちはそれに反応して大声でご機嫌そうに鳴き、籠のなかを軽快に歩き回る。その声の主が自分とおなじトリの仲間だとわかっているのか。うりゃもそうすることがあったのを思いだす。
 
 九時、荻窪駅へ。九段下にある得意先へ直行する。十時よりJ社のNさんと新規物件の打ちあわせ。Nさん、物腰も柔らかく美しい女性なのだが、PDAでスケジュール管理をするバリバリのキャリアウーマンらしい。十一時よりおなじ会社のUさんとPR誌の打ちあわせ。Uさんはマイペースな感じの女性。働く女性にもいろんなタイプがあるのだなあと感じる。
 
 新宿経由で十三時、西荻着。「万豚記」で坦々麺を食べる。となりに座った老人は左手の人さし指がなかった。事故だろうか。失礼かなと思いつつもチラリチラリと横目で見ながら、右だったら箸がもちにくいだろうなと勝手な想像をした。
 十四時、帰社。O社事例集の校正、Z社オーディションサイトのコンテンツ案などを電話、メールで打ちあわせしながらすすめる。
 
 十八時、仕事を切りあげてカミサンと荻窪へ。けいぞう、nananaさんという陶芸家コンビと合流し、青山の某会員制バーへ。nananaさんが開いている陶芸教室の生徒さん、といっても五十代のマダムなのだが、のご主人が会員制バーの企画にかかわったらしく、そのオープニングパーティに招かれたのだ。女性しか会員になれないらしく、男性は会員の紹介がないと入店できないという仕組みが、よくもわるくも現代の社会構造の縮図みたいに思えて、タダ飯タダ酒めあてにのこのこと女三人についてこんな場へ出てくる自分がすこしばかり情けなく思えた。バーは青山のお寺のそばにあり、一階のテラスからは墓場がチラリと覗ける。高い塀で囲われているのだが、そこから何本か、卒塔婆がアタマをのぞかせている。しかも、その高い塀をときおり野良だろうか、猫が悠然と歩いていく。
 立食パーティだ。食べ物は自慢料理なのだろうか、どういうわけか燻製になったものが多い。煙にいぶされた鴨、ベーコン、チーズなどは、どれも独特の風味になっていて、最初は新鮮だったがそのうち飽きた。たくあんまで燻製にされていたが、これはきっと秋田のいぶりがっこの真似なのだろう。いぶりがっこほど徹底した燻製にはなっていないところが都会的とでもいおうか。でも、たくあんはたくあんだ。酒はいろいろ愉しめたが、メインはナントカという銘柄の日本ではあまり口にすることができない貴重な黒ビールだ。特別燻製とあうとは思えず。それに、黒ビールはそうそうガバガバと呑めない。米のはいった軽めの生ビールをジョッキでのど越しを愉しみながら呑むのがスタンダードな日本人には、黒ビールはなかなか受け入れられないんじゃないだろうか。よくわからん。燻製と黒ビールを、卒塔婆を眺めながらのんびりと愉しむ。
 集まった女性は、バリバリ仕事をしている感じのキャリア系が多かったように思えるが、彼女らとことばを交わしたわけではないからよくわからない。聞き耳をたてるなくとも、自然と小難しそうな仕事の話がとびかっていたり、派手そうな遊びの相談をしていたりするのがわかる。会場はちょっと香水臭くなっている。なぜか、サラリーマン時代に無理やりつれていかれたランジェリーパブを思いだした。二十二時ごろ、退場する。
 四人で軽くお茶をしてから帰宅。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。BA-SHOの紀行文『奥のコンクリート道』の紹介、そしてSO-RAの苦悩。テキストの迷走。
 
 
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五月十日(土)
「猫の話や、猫以外の話」
 
 九時起床。すこし呑みすぎたようで、胃とアタマが重たい。
 
 十時、事務所へ。あちこちの一戸建ての庭や道路沿いの垣根などであでやかに咲いていたツツジが、すこしずつしぼみはじめている。目を刺す生命力のようなあざやかさがなくなってしまった。花びらの端は変色したり乾いたり溶けそうになったりしている。その一方で、ほかの木々の葉はすこしずつ緑の色合いを深めはじめている。イチョウの葉が頑固そうな深緑色に染まっていた。
 Z社オーディションサイトのコンテンツ案を企画書にまとめる。ほか、N社パンフレットのスケジューリングなど。十七時、終了。
 
 夕方、帰宅。遊びに来ていたくみぷり。さんときのこさんと酒盛りをする。猫の話や、猫以外の話など。きのこさんはテディベア作家もやっているそうだ。驚く。くみぷり。さんはマタタビ酒なるものを持参。その汁を掌にちょいとつけ、アルコールを飛ばしてから猫にかがせると、たちまち猫たちはトリップしはじめる。おもしろいなあ。
 
 午前一時、就寝。読書はまったくしなかったなあ。あ、風呂で『アタゴオルは猫の森』をすこし読んだか。
 
 
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五月十一日(日)
「 」
 
 九時起床。宿酔いである。おまけに桧の花粉症の症状が出はじめ、鼻水が朝から止まらない。酒を呑むと花粉症もひどくなるのがつねで、したがって今日は最悪の体調だといってもよかった。
 
 掃除、朝食後、テレビ東京の『ハローモーニング』で保田圭卒業と第六期メンバー初ライブのドキュメントを観る。保田のお姉さんぶり、メンバーからの慕われっぷりがよくわかっておもしろかったが、それ以上に、さいたまスーパーアリーナでのライブの様子、とくに会場にいるモーヲタたちの熱狂ぶりに目が釘付けになってしまった。会場はどんな臭いがしたのだろう。男子学生の更衣室とか体育会の部室みたいな臭いだろうか。
 
 午後からは読書。鼻の調子が悪いので、すこし横になる。十四時、リフォーム業者A社が来る。床と壁紙の張り替えの相談。見積を出してもらうことにした。つづいて十六時、リフォーム業者B社が来る。こちらの担当は女性だ。まだ若い。見積、提案内容を比べて、発注先を決めようと思う。
 
 夕方から都立家政にある鳥の病院へぷちぷちを連れていく。検査してもらうと、前回の検便で発見されたナントカ菌は、投薬が効いたらしく駆除されていたようだ。きゅーといっしょの籠に入れていいですよ、といわれる。
 
 二十時、NHK教育テレビ『新日曜美術館』を観る。三岸幸太郎の作品。あまり好きになれず。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。BA-SHOの最後。トレーラーにぶつかる寸前にBA-SHOが思いだした、アビシニアの砂漠で出会ったフランス人の詩人の亡霊の消え行く姿の描写がおもしろかったので引用。
 
 ★★★
 
 その間にも、男は刻々薄く、淡く、たよりなくなっていった。男をとおして、向こう側に波打つ砂漠の稜線が見えた。呆けたようにぶつぶつと、南無阿弥陀仏の真言の断片を呟きながら、BA-SHOはなすすべもなく男を見つめていた。男は大儀そうに体をBA-SHOに向けた。すでに、空は漆黒の闇ではなく、黒の中に一滴の光が混じり、それ故、闇はいっそう濃く見えた。朝の訪れは近いのだ。男はBA-SHOを見すえていた。いや、それはBA-SHOの見間違えにすぎなかったか。ただ、男はBA-SHOのいるあたりをぼんやりと無言で見つめていただけかもしれなかった。あれは『善知鳥』か『邯鄲』か。伊賀上野藤堂の屋敷の能楽堂で見た謡曲の旅装は、亡霊というものは前世の知識や情緒をなくしているのだ、といっていた。いや、こうもいっていたではなかったか。「あれ」がなにをいおうが、どんあふるまいをしようが、なにも知らずにやっていることなのだ。空っぽなのだ。空気なのだ。なにも感じちゃいないのだ。誤解しちゃいけない。涙を流してもいけない。「あれ」は生きた人間とは別の規則で流動する、大いなる自然現象のひとつなのだ。霧なのだ。靄なのだ。風なのだ。天気の予報官が、消滅する台風に一掬の涙を流すか。供養してもしなくても、時がくれば「あれ」は空中に消えてゆくのだ。放っておけ。うっちゃっておけ。
 
 ★★★
 
 これが「ゴースト」という謎の存在を解明するヒントになる。いや、じつは読者をさらに混乱させるために挿入されているのだと思うが、実際はどうなのだろうか。
 
 
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五月十一日(月)
「宿酔いの空」
 
 坂下千里子にいい寄られる夢を見る。なぜだろう。ファンでもなんでもないのに。
 
 舌に痛みを感じて目が覚める。できものができたらしい。口内炎みたいなものか。べろを出し、ウエーといいながらリビングのカーテンを開けると、外は気分が悪くなるような薄暗さで、昨日、一昨日の宿酔いがぶりかえしてくるように思えてきた。雨が降ったりやんだりをくり返している。宿酔いの吐き気の波みたいだ。
 
 九時、事務所へ。朝一で銀行へ。現金の引き出し、振込みなど。戻ってからは、J社ビジネスソリューションのパンフレットの構成に集中する。が、すぐに飽きるのでまめにベランダに出て外を眺めつつストレッチしたり、ヤフーでニュースをチェックしたりして気分転換する。予定していたL印刷の打ち合わせが延期に。新規物件の引合いもあり。
 二十一時、帰宅。
 
 夕食を採りながら日本テレビのドラマ『伝説のマダム』を観る。近ごろは漫画よりもドラマのほうがおもしろいと感じる。ドラマは放映回数が決められているから物語をしっかりつくりこんで、納得のいくかたちで終わらせることができるが、漫画はいつ打ちきられるかわからず、人気が出ると終わらせることができないという問題を抱えているから、そうなってしまうのだろう。物語をつくろうとするものにとって、漫画とは最悪のメディアだ。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。ふたたびゴーストと戦うために東へ向かうブッチ・キャシディとサンダンス・キッド、そして「ゴーストの孤児」。銀河鉄道に乗り込むBA-SHO。
 
 
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五月十三日(火)
「永作ちゃんのことなど」
 
 二時から二時間おきに目が覚めてしまう。なぜだろう。とくに思いなやむことがあるわけでもなし、気がかりなことがあるわけでもなし。厠に行きたくなって二時に目が覚めた。もう一度寝て、夢を見て、内容は忘れてしまったが、それが途切れたのが四時だ。花子がジロリとこちらを眼力のある目で見つめてきたので、起きてご飯をあげた。また夢を見て、それの途切れ目が六時だった。家のなかの夢だった。七時をまわったというのに、陽が昇らない。どうしてだろうと思ったら目が覚めたのだ。しばらく呆然とし、意識がはっきりしてからもう一度眠ろうと思ったが、なかなか眠れなかった。夕べのドラマに出ていた永作博美のことなどを考えていたら、八時になった。仕方ないので、ちゃんと起きた。そのあいだ、何度かは浅い眠りについていたと思う。
 
 九時、事務所へ。J社パンフレットの構成とラフなコピー。午後からキヤノンがプリンタを納品に来る。カラープリンタ、コピー、ファクスの複合機である。買ったら三百万くらいするのだが、リースを組んだら以前のカラープリンタとファクスのランニングコストより一万円も安くなる。プリントまでに要する時間も大幅に短縮できる。魅力だらけのプリンタだ。
 
 キヤノンが来てしまったので昼を食べそこねてしまった。十五時、遅い食事。二十二時、帰宅。
 
 夜、書斎でトリたちを出してやる。きゅーは着実に太りはじめている。いい傾向だ。ぷちは本棚のうえを走り回っている。二歳か三歳くらいの子どもがハイテンションになったときにそっくりだと思った。籠に入れようとすると怒ってダダをこねるところも似ている。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ登場。
 
 
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五月十四日(水)
「深夜の深紅の薔薇と雨」
 八時起床。空は曇っていて、空気は重たく湿っている。こりゃ一雨降るな、と思っていたのに、出かけるときに傘を忘れてしまった。
 
 九時、事務所へ。スケジュールの整理をしてから、十時に外出。九段下のJ社にてパンフレットの打ちあわせ。構成案をプレゼンした。午後より代官山のJ社にて――九段下とは別会社だ――、O社神奈川支点コンペの打ちあわせ。帰社後はO社に専念する。
 郵便局から不在通知あり。法律事務所から、書留が送られてきたようだ。なんだこりゃ。こんな名前の法律事務所、知らん。内容証明ではないらしいが、それに近いものかもしれない。間違いじゃないのか。身に覚えがないぞ。なにか悪いことしたっけ、と過去をふりかえり、どきどきしながら再配達を電話で依頼する。十九時ごろ、郵便配達人が来る。やはり法律事務所からだ。行政書士や司法書士ではない。弁護士の事務所とある。おそるおそる、なかを開けてみる。……なんのことはない、事務所の管理会社の社長が変ったことの通知だった。
 二十二時、帰宅。
 
 帰り道、一戸建ての家の庭に薔薇が咲いているのをみつけた。深紅の薔薇だ。雨に濡れると黒ずんで見えそうだが、夜の闇のなかでも赤い花びらははっきりと見える。
 
 夜、ぷちぷちの羽根をすこし切る。コイツ、飛びすぎだ。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。ゴースト探しの旅に出るドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの姪、そして「正義の味方」超人マンの登場。
 
 
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五月十五日(木)
「美少女と化粧、ちょんまげとハラキリ」
 
 七時に目が覚めてしまう。そのまえ、四時に起きて花子にご飯をあげたのだが、そのあとしっかり眠れなかったようだ。最近、プチ不眠症がつづいている。最近忙しくてちょっとピリピリしてはいるが、とくに激しいストレスを感じているわけではないのだが、こんなにつづくと少々不安だ。ぼんやりした不安。……これじゃ芥川か。
 
 八時、ちゃんと起床。最近は『ズームイン』を観なくなってしまった。八時から八時三十分までのあいだが、お涙頂戴といった内容のドキュメンタリーばかりで飽きるのだ。失礼かもしれないが、興味もない。苦手なのだ。朝から苦手なものを無理して観る必要もないだろう。ここ数日はTBSの番組を観ている。画面左上に常に表示されている天気予報が異様に細かいのが気に入った。県単位でなく、八王子とか日立とか銚子とか、地区単位で知らせてくれるので便利なのだが、一度自分の地区を見落とすと大変だ。番組内容よりも、この部分ばかりを観てしまう。それが楽しい。
 
 九時、事務所へ。風の加減だろうか、傘はしっかり差しているというのに、じっとりした雨がときおり顔を濡らすことがある。最近はコンタクトレンズを使わずメガネばかりかけているので、雨滴というのはちょいと困り者なのだ。雨に打たれることも心地よい季節だと自分にいいきかせてもいいだろうが、やはりニンゲンは本能的に濡れたくないと思う生き物らしいから、雨はどうしても好きになれない。
 夕べ見つけた深紅の薔薇は、パラパラと中途半端な勢いで降りつづける雨にぐっしょり濡らされていたが、負けじと周りの雨滴を自分の色に染めようとしているふうに見えて、ちょっとおかしかった。いじっぱりで、負けず嫌いの薔薇。
 
 日中はO社神奈川支店企画に終始。夕方、外出。十六時より、Z社オーディションサイトのプレゼン。
 中央線で、美少女を見かけた。身長は百五十センチちょっとと小柄だが、躯の大きさのバランスがよいためだろうか、さほど小さく見えない。制服がかぶさった肩がきゃしゃに見える。色白で、目が大きく、濃くて長いまつげにきれいに囲われている。試験が近いのだろうか、それとも勉強が好きなのだろうか、おなじ車両に乗りあわせた同級生たちはおしゃべりに興じているというのに、この子だけはチェックペンと暗記シートを使って、懸命になにかを覚えようとしている。その様子は血眼というのではなく、肩がきゃしゃなせいもあるのだろうけれど、すっと力が抜けていてリラックスしているように見えて、そこが最近忙しくてつねに緊張状態にあるぼくにはみょうに素敵に思えた。中野駅で彼女は下車した。顔が視線に飛び込んできた。そのときになってはじめて、ぼくは彼女が化粧していることに気がついた。目が大きく、まつげが濃く見えたのは、アイラインとマスカラのおかげだったのだ。化粧バッチリ、暗記もバッチリというわけか。
 山手線では殿様型ちょんまげヘアの男を見かけた。ヨレヨレの、漢字をあしらったオリエンタルなTシャツと黒いジーンズ、腕にはラスタカラーのリストバンドをしている。首には、よく見えなかったが金属がじゃらじゃらとぶらさがっていたみたいだ。靴はアディダスの「カントリー」。ここまではふつうの男なのだが、アタマだけ変なのだ。ほんとに殿様みたいなのだ。おでこからあたまのてっぺんまでが、半円状に剃りあげられている。長い髪は白い布で細く筒状にまかれ、それが天にむかってピンと立っている。男は疲れているらしく、ずっと座席に座りこみ、そのうちかがみ込むような格好で寝入ってしまった。ちょんまげが、天ではなく向かい側の座席に向かって伸びている。触りたくなる見えかただ。やはり、この男は粗相をしたときにこれを切るハメになるのだろうか。いや、それとも殿様らしく切腹かな。ちょんまげを結っている理由よりも、そのことばかりが気になってしまった。小指詰めるか、ちょんまげ切るか。腹かっさばいてお詫びをするか。
 
 帰社後もO社の企画。0時帰宅。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。ゴーストからの手紙を受け取るタカハシさん。
 
 
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五月十六日(金)
「震えるおしべ、震えるめしべ」
 
 八時起床。今日も雨だ。気分が沈む。いや、もやもやするといったほうが正確だ。
 
 九時、荻窪駅へ。九段下のJ社に直行する。IT系ソリューションのパンフレットの打ちあわせ。雨の中、暁星中学のまえの坂をのぼるのは少々しんどい。今日は鞄のなかも資料でいっぱいになっているから、さらにやっかいだ。枯れかけたツツジの花が、勢いよく振りつづける雨でクタクタになっている。花びらは茶色く変色し、花弁のまわりでしおれて鼻をかんだ後のちり紙みたいにまるまっている。ふしぎとつやつやした色のおしべとめしべだけが元気よく空に向かって元気よく伸びているが、残念ながら空のご機嫌は今ひとつで、雨滴はおしべもめしべも区別なくびしょびしょに濡らす。雨滴に打たれるたびに、つややかなおしべとめしべはプルプルと震えた。
 二時間ほど打ちあわせ。ビルを出ると、雨は止みかけていた。
 
 リスドオル・ミツのパンで昼食。午後からはO社神奈川支店の企画と、J社のパンフレットの構成。
 夕食はそれいゆでドライカレー。ターメリックライスに干しぶどう、その上に牛ひき肉のドライカレーがどさっと盛られている。さらに、上から覆いかぶさるようにして目玉焼きがのせられている。皿のはじにはレタスと、なぜかスライスされたバナナが乗っている。味はごくごく普通のドライカレーなのだが、目玉焼きがのっているぶん、見た目は華やかで、味もマイルドになる。隣に座っていた三十代くらいの女性もおなじものを注文していた。彼女は「ドライカレー」と注文してからもう一度メニューをじっくり見なおし、あとから「あ、しまった」と声に出し、慌てて店員を呼びとめ、怒ったような口調と目つきで「目玉焼きは両面焼きで、硬めに」と細かな指示を出した。半熟が苦手なのだろうか。注文のしかたに落ち度があったのがよほど気に入らなかったのだろうか、彼女はメニューに書かれたドライカレーの説明文をとんでもないスピードで音読しはじめた。声に出すことで、料理の内容を把握しようとしているのだ。また、「あ」という声が漏れる。彼女は三たび店員を呼びとめ、「干しぶどう抜きで!」と力のこもった声で言った。
 
 夜も引きつづき企画の作業をつづける。午前二時、帰宅。発泡酒を呑んでから、寝る。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。新章「ペンギン村に陽は落ちて」。前作とおなじ世界観みたい。イントロの部分で「はるばあさん」が語り部のような形で登場するところが、中上の『千年の愉楽』みたいだと思った。源一郎氏も意識していると思う。
 
 
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五月十七日(土)
「慌てるバッキー/ペンギン村の必然性」
 
 八時に目が覚める。いかん。いつもは日の出まえか直後に与えている猫ご飯を、すっかりわすれていた。大急ぎで缶詰めを開ける。もう一度蒲団に入り、小一時間ほど寝なおしてから、九時に起床する。空はどんよりと曇っているが、雨は降っていない。喉がつまるような湿気も感じないので、今日はもう降らないだろう。傘をもたずに出かける。
 
 十時過ぎより事務所で作業。O社の企画を二十時まで。腰の右側に痛みを感じる。運動不足だろうな。
 
 夜、以前いた会社の同僚だったバッキーが遊びに来る。ヤツめ三年ぶりに会ったというのに、ぼくの顔を見ての第一声は「その髪形、イヤ」だった。なんだコイツ。バキ蔵はウチでタラコスパゲティとれんこんサラダを食べ、新聞に掲載されていた高額納税者一覧をいっしょに眺めていたが、二十三時まえになると慌てて帰っていった。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』。どうやら、ペンギン村には「死」というものがなかったらしい。次々と村人に襲いかかる「死」。なぜ舞台がペンギン村でなければならないのか、その理由はよくわからない。ひょっとしたら、前作の没原稿を活かしたのかも。
 
 
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五月十八日(日)
「捕らわれた狼少女みたいに/消えゆくもののための文学」
 
 眠い。目が覚めても眠くなる。眠りが浅いということだろうか。わからん。考えても無駄だ。無駄なら眠るに限る。しかし『笑っていいとも増刊号』を観たいのだった。「テレホンショッキング」に辻加護が出ているのだ。見逃してはならない。忘れていた。失念していた。時計を見たら十時を過ぎていた。まずい。気合いで起きた。しかし、辻加護はそんなにおもしろくなかった。カミサンの話ではタモリを翻弄しつづけていたというのだが、ダイジェストではそれがちっとも伝わらないではないか。がっかりする。
 
 午後から義母が花子の娘である桃子を連れて遊びに来る。桃子は終始興奮しつづけていた。つねに「ウー、ウウー」と、捕らわれた狼少女みたいにうなり続けている。話しかけると「シャー」といって威嚇するからタチが悪い。近寄ると猫パンチが炸裂する。噛みつかれる。とんでもない暴れん坊だ。コワイ。一方、花子は桃子に寛容で、ほとんど怒らず、平常心を保ちつづけていた。母親としてのココロの広さを示したのかとも思えるが、目の前にいる猫はかつて自分が生んだのだということなぞサッパリ忘れているわけだから、母としてというよりは大人の猫として、といったほうが正しいのだろう。麦次郎は興奮する桃子に興味津々で、つきまとっては怒られ、しっぽを巻いてどこかに隠れたり逃げたりしている。しかし懲りない。飽きずに追いつづける。仲よくしたいらしいが、気持ちはさっぱり通じない。せつない片思いなのか、それともただのちょっかいなのか。タマを取ってるから、片思いではないのだろう。
 義母はウチでお好み焼きで夕食を済ませてから二十時に帰宅した。桃子はそのときもまだ怒っていた。
 
 高橋源一郎『ゴーストバスターズ』読了。世の中は死と消滅からなりたつ。消えるものがなければ、なにも生まれない。源一郎氏は「消えゆくもの」を書きたかったのではないだろうか。だから、すべてを虚無に追いこもうとする謎の存在「ゴースト」を書いた。ペンギン村の人々の「死」を書いた。「正義の味方」超人マンであるタカハシさんに「セイヴ・ジ・アース。かけがえのない地球。滅びゆく文学」と語らせたのだ。
 死は悲しい。消えることは、残るものに悲しみを与えることだ。だから、この小説は悲しみにつつまれている。世界でいちばん奇妙で悲しい物語。
 
 つづいて、奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』を読みはじめる。『吾輩』の徹底的なパロディ。文体まで似せるとは、技術的にも高度だと思う。いっぱい勉強しているんだろうなあ。この人、たしか元経済学者かなんかだし。アタマいい人はトクだなあ。
 
 
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五月十九日(月)
「今日の事件簿」
 
●ブレイキング・マイ・ペース事件
●ガスター10は医師の指示に従い用法用量を守って正しくお使いください事件
●オマエらはきっと営業妨害になっているぞわかっているのかコラ事件
●謎の集団フォーメーション事件
●煮え煮え事件
●MONO消しゴムに乗り換え事件
●ネットでチラシ箱事件
●徹夜事件
 
 
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五月二十日(火)
「雨は『走れ』と命令する」
 
 日をまたいで仕事をすると、次の日カラダが少々重たくなる。たいていの場合、仕事を終え興奮したまま、鼻息を荒くたてながら家に帰ることになる。風呂にはいっても落ちつかず、ほてったアタマをビールで冷やしてから蒲団に入るが、寝つけてもすぐに目が覚めてしまうことが多い。いや、みょうに鮮明だけれど筋道のたっていないバカバカしいほどに不条理な夢のおかげで熟睡できないといったほうが正確か。朝になると、ビールのつまみのおかげで胃は痛み、カラダは二百メートルダッシュを十本こなしたあとみたいな――高校生のときは陸上部だったから、こんなことばかりしていたのだ――、ずっしりとした疲労感がある。上のまぶただけでなく、下のまぶたまで重たい。
 それでも出勤時間はやってくる。『特ダネ』で紹介していた、弥生時代が五百年ほど早い時代からはじまっていたかもしれぬというニュースに後ろ髪をひかれながら、今日も事務所へ行く。
 
 昼間はJ社パンフレットの構成案。十五時三十分から、J社にて構成案をプレゼンする。なんとか構成が固まる。明後日までにざっくりとコピーを書いてデザイナーに渡さねば。次の打ち合わせまで間が空いてしまったので、九段下のナントカカフェで時間を潰す。仕事の資料を呼んでいたのだが、気づいたら外は豪雨に。激しい雨音は店内にまで響いてきた。傘を忘れた人たちがずぶぬれになりながら地下鉄の入り口に駆けこんでいく。雨にはニンゲンを動かすチカラがあるらしい。この人たち、雨に降られたら走るけど、上司に走れといわれても走らないんだろうなあなどと、くだらないことを考えた。
 十七時四十五分、店を出る。雨は激しく道路を打つ。水が溜まりだしたアスファルトは、雨滴を受け、それをもう一度空に打ちかえそうとするけれど、次々と押しよせる豪雨に押され、しぶきになって、広がり、地面に沿って散り、流れていく。クルマが紙をいきおいよく引き裂いたときみたいな音を立てながら、水を巻き上げ走り去っていく。
 
 十八時三十分より小石川のL社でO社定期刊行誌の打ちあわせ。不透明な部分が多い物件なのだが、打ちあわせはみょうにまったりした雰囲気。社風というやつだろうか。
 
 二十時三十分、帰社。事務処理を済ませて二十一時に帰宅。
 
 奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』。猫はようやく上海に上陸。
 
 
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五月二十一日(水)
「おばちゃんのバイタリティ/結婚記念イタリアン」
 
 暗闇のなかで花子に起こされる。時計を見ると、午前四時だ。今呼んでいる『吾輩は猫である殺人事件』は、猫が暗闇のなかに閉じこめられている場面からはじまる。これを寝ぼけたアタマでなんとなく思いだした。
 
 八時起床。雨はやんだ。ニュースでは晴れると報じているが、まだ空は雲に覆われていて、爽快感などみじんも感じられない。傘をもたずに出かけることができるのだけが、すこしだけうれしい。持ち物はすこしでも減らしたほうがよい。重いと肩が凝るからだ。
 
 九時、事務所へ。スケジュールの確認とメールチェックをしてから新宿の労働基準監督署へ。労働保険料の支払の手続きをしなければいけないのだが、ここ二年ほどスタジオ・キャットキックは正社員の雇用はないので労働保険料の徴収はしておらず、したがって申告額はゼロ円なのだが、手続きだけはきちんと行わなければならないのだ。零細企業とはいえ、社長業は大変だ。いや、メンドクセエといったほうが正確か。申告は十分で済んだ。これだけのために出向かなくてはならないとは、ホントにメンドクセエ。
 帰りのエレベーターでちいさなおばちゃんとのりあわせた。ならんだときにかなり視線を落とさないと顔が見えなかったので、きっとミニモニ。とおなじくらいかあるいはそれ以下の身長なのだろう。アタマはクリンクリンなおばちゃんパーマ、どこがどうなっているのかわからないくらいデコラティブなサマーセーターみたいな服が印象的だ。肩からスカーフをかけてアクセントにしている。PDAにメモを書き込んでいたら、おばちゃんは親しげにぼくに話しかけてきた。「それは、なに?」ほんとうにぼくが手にしているものがなになのかがわからず、不思議でたまらないという表情をしている。これは電子手帳だといったら、今度は「電子手帳とはなにか」とさらにつっこんだ質問をしてきた。好奇心で目が輝いている。パソコンとつないだりできる、とだけ話すと、今度はメーカーを聞いてきた。今日はクリエを持ち歩いていたので――Pocket PC、シグマリオンとコレを使い分けている。最近はコレばっかり――ソニー、と答えると、「親戚が勤めているから聞いてみようかな」というと、そのまま競歩みたいな早歩きで去って行った。突然質問されたことより、おばちゃんの行動力、せわしなさ、落ち着きのなさに圧倒されてしまった。
 
 西荻に戻る。一旦事務所に戻ってから昼食をとりにもう一度外へ出る。アーケードを歩いていると、白のボディコンシャスなトップスに同素材のマイクロミニをあわせたパサパサ茶髪の派手なねーちゃんと、いい加減な七三分けとチェックのシャツにポケットがあちらこちらについたベストを着てセカンドバッグを抱えたオヤジの二人組が仲よさそうにあるいているのを見かける。ねーちゃんは新宿はナントカだが新大久保はナントカだとか、よく聞きとれなかったがどうやらポケットおやじに盛り場の話をしているらしい。水商売の女だろうか。
 蕎麦屋「砂場」で昼食をとる。おろしそばをすすっていると、先程すれちがったねーちゃんとポケットおやじが店に入ってきた。昼間からビールを決めこんでいる。呑むのがあたりまえ、といわんばかりの呑みっぷりだったから、二人とも水関係とみて間違いはないだろう。ふだんは縁がない世界の人たちなので、失礼とわかりつつもついついジロジロながめてしまった。いや、ジロジロしたのは無意識のうちにねーちゃんのフトモモに魅了されてしまったからかもしれない。よくわからん。
 
 午後からは見積、J社パンフレットの構成の最終調整とヘッドラインだけのコピー執筆。二十時、店じまい。
 
 カミサンと西荻でいちばんおいしい(とぼくは勝手に決めこんでいる)イタリアン「トラットリア・ダ・キヨ」へ。今日は結婚記念日なのだ。失恋記念日ならぬ、結婚記念日。失恋レストランならぬ、結婚記念イタリアンだ。白のハウスワイン、きまぐれサラダ、タコマリネ、ペペロンチーノ、鶏とジャガイモの天火焼きを食べる。この店、以前は吉祥寺にあったのだがオーナー兼シェフがイケメンだということで評判になり、小便くさい小娘が連日どっと押しよせてくるという事件が起きたらしく、辟易して西荻に移転したという。たしかにシェフはイケメンだが、騒がれるほどではない。店の雰囲気は落ちついていて、天井は高く、縦横に組まれた古びた素材の梁の深い色合いがさらに気分を落ちつかせてくれる。照明は天井にはいっさい取りつけられいない。ブラケットと呼ばれる壁付け型の明かりだけなので店内は薄暗いが、フロストガラスのシェードから漏れる光がとても柔らかくしっとりとあたりに広がるせいだろうか、陰鬱さよりも優しさを強く感じてしまう。料理もおすすめだ。ふたりでボトル一本空ける自信がなかったのでハウスワインをデキャンタで頼んだのだが、これが本格的なイタリアンによく合う。
 
 帰りに、隣にあった古書店を覗いてみる。絵本に力をいれいているらしい。おもしろそうなものがたくさんあったが、立ち読みしはじめるとキリがないので軽く見ながす程度にとどめておく。文庫コーナーにあった島田雅彦の本を三冊買う。『彼岸先生』『ロココ町』『預言者の名前』。『ロココ町』は学生のときに読んだが、十年以上もまえのことなので内容を忘れてしまった。きっと実家に帰れば下品な装丁のハードカバーがどこかにしまってあるはずだ。
 
 奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』。都会・上海でたくましく生きる猫。先生の家で飼われていたときよりもワイルドに生きている。
 
 
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五月二十二日(木)
「今日はとりたてて書くことがないので軽めに」
 
 八時起床。今日は朝からはっきり晴れている。が、あいにくぼくの体調は曇り空だ。胃袋が重たく、じくじくと痛む。朝食は軽めに済ませることにし、さっさと会社に行く。
 
 終日、O社PR誌の企画書。十四時半からカイロプラクティックに行ったが、それ以外はひたすら企画書づくりに専念した。二十一時帰宅。
 
 奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』。イギリス人の動物愛護精神と植民地政策のギャップを語る、上海猫の虎君。
 
 
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五月二十三日(金)
「入院の日」
 
 麦次郎に「起きろ」といわれた。めずらしいこともあるもんだ、と思いながら半分寝ぼけたままヤツを撫でまわしてやったら、すぐに花子がやってきて麦次郎をギロリとにらみつけた。麦はそそくさと退散すると、花子はぼくの胸のうえにのって、物言いたげなそぶりでぼくを見つめる。ヤキモチを焼いているのだろう。すぐに起きることにする。蒲団から抜けだすと、二匹ともリビングまでぼくについて来た。八時。
 
 九時、事務所へ。久しぶりに掃除機をかける。いつもはクイックルのフローリング用でささっと拭き掃除をするだけだ。以前は週に一度「掃除機の日」をもうけていたのだが、忙しさを口実についついさぼるようになり、とうとうまったくやらなくなってしまった。義母が事務所に来て仕事を手伝ってくれるときは掃除機をお願いするのだが、最近はカミサンのグッズ生産の手伝いばかりしているので、あまり掃除をしてくれない。
 予定していた打ち合わせが延期になってしまったので今日は比較的ヒマなのだが、銀行まわり、帳簿付け、請求書発行、見積などをやっていたら、あっという間に夕方になってしまった。
 
 十七時、かなり早いが店じまい。きゅーが二三日前から調子が悪いので病院に連れていく。二時間近く待たされる。待合室は狭いので、カミサンだけが待つことにし、ぼくは病院のある都立家政の商店街をうろついて時間をつぶす。女子高生の多さにびっくりしてしまった。彼女たちは街のあちこちに二三人からなる集まりをつくり、道端で、立ったまま、あるいは地べたにペタリとお尻をつけて、ひたすらにおしゃべりをつづけている。ずっと座っているのではなく、話の盛りあがりに応じて何度も立ったり座ったり、隣にいる子にもたれかけたり叩くようなそぶりを見せたり、躯をはげしく左右に動かしてゲラゲラ笑ったり、腹を抱えて笑ったり、コソコソした感じで笑ったり、「マジマジ」とか「ッテユーカ」とかいった新しい間投詞を口にしながら笑ったりしている。とにかく、みんな笑っている。笑いすぎだ。
 やっと診察の番がまわってきた。症状を話すとすぐに入院決定。しばらく預かりながら、考えうる処置をいろいろやってみる、と先生はおっしゃった。肝機能が弱っているらしいが、原因をはっきりさせるためにレントゲンも撮るという。きゅーはアクリル製の水槽みたいな籠――たぶん、水槽そのものなんだと思う。保温がいいから使うのだろう――に入れられてしまった。体調悪いくせに、よくわからん場所に入れられたのがイヤらしく、はげしく動き回って抗議している。だが、しかたがない。先生にすべてを託し帰途につく。
 
 夕食は荻窪のインド料理店「ナタラジ」でカレー。コースにしたら、ちょっと高くついてしまった。
 
 風呂のなかで、奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』ををすこしだけ。
 
 
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五月二十四日(土)
「老人と卒塔婆」
 
 九時三十分起床。カレー用のスパイスと漢方薬は共通する材料が多いというが、スパイスの漢方薬効果があったのだろうか、今朝はさほど胃が重たくない。休日なのでストレスから解放されただけのことかもしれぬが、いずれにせよ体調がマシになったのはよろこばしいことだ。
 
 掃除など、家事をしながらテレビをチラリチラリと観る。昼時にやっていた『メレンゲの気持ち』で紹介していた、ガダルカナル・タカと奥さんの結婚式がおもしろい。芸人魂に塗り固められた、お客さま第一主義の披露宴だ。入場は関取と行事の格好、キャンドルサービスはSMスタイル、しかもロウソクはロウソクプレイ用のものだ。ケーキ入刀にいたっては、本物のケーキを用意したというのに料理人が床に落としてしまってぐちょぐちょ、その状態にナイフを入れた。引き出物は「ふたりの愛の重みを感じてほしい」という理由から、荷物運搬用の台車が配られたという。すばらしいと思う。
 
 ぷちぷちは入院したきゅーを探しているようだ。さみしいらしい。ぼくはさほどさみしくない。せっかく入院したのだから、よくなって戻ってきてほしいと思う。なにせ、闘病生活はもう二ヶ月を越しているのだ。きゅーもしんどいだろう。
 
 午後から事務所へ。デジカメで不用品を撮影し、ヤフーオークションに出品する。その後、吉祥寺へ。キャットフード、箸などを購入。
 吉祥寺の駅を出てすぐを左にいったところにあるアーケードで、長い棒状の荷物をもった老人を見かける。年のころ八十過ぎだろうか。白髪頭がかんかん帽みたいな帽子にすっぽりと覆われている。カジュアルなカットシャツに麻のズボンが粋だ。老人は丁寧に風呂敷で周りをぐるぐるまくようにして包んだ棒のような、長い板のようなものを右手にもって、ちょっとだけ背中をまるめながら、しかし力強い足取りでスタスタと人込みを気にせず、まっすぐ歩いていく。棒状のものは、風呂敷では包みきれないくらいに長い。老人の背丈はおそらく百六十センチくらいだろうが、それよりは確実に長いため、両端が風呂敷からはみ出ている。老人がぼくら夫婦とすれちがった瞬間に、なにをもっていたかがはっきりわかった。卒塔婆である。梵字やらなにやらを書き込んで墓場につき立てる、長い木のお札である。老人の奥方のものだろうか。それとも老人が自分のために買ってきたのだろうか。いやひょっとすると、老人は卒塔婆職人でこれから納品に向かうのかも、などとついつい想像してしまう。吉祥寺の町は地名に「寺」とつくだけあって、仏寺とは縁が深いのかもしれぬから、卒塔婆職人の一人や二人、いてもおかしくない。もっとも、卒塔婆職人なる職業があるのかどうかを、ぼくは知らないのだが。休日を愉しむ人々が溢れかえる雑踏のなかで、卒塔婆と老人はかなり異質な存在であるはずなのに、自然と街並みに溶けこんでしまうから不思議だ。老人が卒塔婆をもっていることに気づいた人間は、どれくらいいたのだろうか。卒塔婆を運ぶ老人の存在に違和感を感じる人がすくないのは、死というものが日常のにぎわいのなかにひっそりと隠れていることを、みな無意識のうちに感じているからなのかもしれないなどと考えてみたが、おそらくそうではなくて、老人はあまりに地味すぎて、街の騒々しさのなかに埋もれてしまっただけなのだろう。
 
 夕食は特製モロヘイヤ入り餃子。これを鍋で茹でながら、水餃子鍋のようにして食べる。残った汁に鳥がらスープともやし、餃子の皮包みのときに残ってしまった餡を加え、中華麺をいれて、最後は餃子鍋ラーメンで締める。思いつきでやってみたのだが、これが意外に美味だ。餡がいい出汁になったのだろう。
 餃子を鍋にいれ、ゆで上がるのを待っているあいだ、さみしがるぷちぷちに何度も話しかけてやったら、夢中になって人の話を聞いている。ところが、食後に籠からだしてやると一目散に本棚のうえまで飛んでいき、ニンゲンのところにはよりつこうともしない。
 
 『吾輩は猫である殺人事件』。苦沙弥先生が何者かに殺された。はじめて「悲しみ」というものを感じる猫。微妙にニンゲンと猫の視点の違い、感覚の違いを書きわけているところが秀逸。
 
 
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五月二十五日(日)
「一瞬だけ堕天使になりかけた彫刻/ウンコとちびっこ」
 
 五時半、猫ご飯のため起床。外はうっすらと明るい。すこしずつ日の出の時間は前倒しになっているんだと実感した。なんの加減だろうか、日の出前のリビングダイニングは、みょうに青白く光って見えた。
 八時、ぷちぷちを起こすために起床。かけておいた黒い布をとってやると、ぷちはきょとんとした目でこちらを見返す。小さな躯はすこしも動かず、足は止まり木にくっついたまま離れなくなっているように見えなくもない。猫たちが籠のまわりにやってきて、硬直状態にある、もっと平たくいえば寝ぼけたまま固まっているぷちの様子を覗きこむようにして観察している。
 
 九時三十分、きちんと起床。『関口宏のサンデーモーニング』『笑っていいとも増刊号』を観ながら身支度、掃除、朝食。『ハローモーニング』も観てしまう。観ないと日曜日がはじまらないようで不安になるから、まちがいなくぼくは病気なんだと思う。
 
 午後から外出。新宿伊勢丹で、父の日のプレゼントを購入する。そのままどこにも寄らず、まっすぐ帰宅する。人混みは苦手だ。
 でき上がったクリーニングを引き上げてから帰宅する。
 
 夕食は焼き肉。自家製焼き肉のタレで。食べながら教育テレビの『新日曜美術館』を観る。天童荒太の小説『永遠の仔』の装丁で一般の知名度も高い彫刻家、船越桂。新作のメイキングを紹介していた。お腹のぷっくりした、でも顔は彼独特の、遠いまなざしをした無表情の裸婦だ。背中から、手が左右逆になって生えているのが印象的だ。ラフスケッチや立体化の過程、そのときどきの作品の未完成状態での造形を観るのは非常におもしろかったが、完成品にはさほど感銘しなかった。形を決めこむ段階では、手は下地の白塗りをしただけだったのだが、顔はほとんど完成にちかい形で塗りこまれていた。この状態で付けられたときが、いちばん作品としておもしろいと感じてしまったのは、顔には――無表情といえども――血が通っているのに、手にはそれが感じられない、そのギャップが不思議なイメージを作りだしているからだと思う。あの状態のとき、肩から生える手はぼくには天使の羽根に見えた。いや、天使ではない。堕天使サタンを連想してしまったのだ。しかし完成品は残念ながらそうは見えなかった。よくよく観察しつづけていればなにかを感じることができるのかもしれぬが、それだけの吸引力がこの作品にあるのか、どうか。それはテレビの映像だけでは残念ながらわからない。しかし、制作過程のなかで見え隠れしていた荒々しいほどの喚起力、創作のエネルギーがどこかに埋もれてしまった感があるのは否めないし、それを完成品のなかから再び見つけだすのも容易ではないように思える。もっとも、完成された造形美にエネルギー、観るものの想像力を掻き立てる動的な力を見出そうとすること自体が誤りなのかもしれぬが。芸術とは想像力の産物である。出発点が想像力であるなら、終着点も想像力であるべきだと思う。ぼくには、氏の作品は受け手が抱く想像力をあまりに限定的にしすぎているように感じる。いずれにしても、一度現物を観ておきたいと思った。
 
 二十三時、『ガキの使いやあらへんで』を観る。ココリコと中川家の子ども笑わせ対決。案の定、ウンコネタになっていた。子どもとは、ウンコとかオナラプーとかオシリとかチンチンとかおしっこシャーとかいっていれば、とりあえずゲラゲラ笑ってくれる生き物である。
 
 奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』。英吉利猫、ホームズとその相棒ワトソン君の登場。苦沙弥先生殺人に関する新聞記事が紹介される。密室殺人だ。どうやら語り手は『吾輩』の名無し猫だが、ホームズが謎の解明役となるらしい。しかし、そんなことよりやはり、漱石の文体の模倣の狙い、そして「殺人事件」というスタイルを取ることの狙いが気になる。それらはまだ見えてこない。


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五月二十六日(月)
「きゅー帰る」
 
 八時起床。きゅーが入院して三日が過ぎたが、とくに心配していないのでさみしい気分におそわれることもない。いつも通りの月曜の朝だ。空はいくぶん曇っている。テレビは、今日一日降ったりやんだりがつづくと報じている。もやもやした天気がつづくと気分が腐ってくるが、きゅーのことで不安になったりはしないから不思議だ。中野バードクリニックの医師を信頼しているからだろう。
 
 九時、事務所へ。午前中は事務処理をしていたら終わってしまった。午後は時間が空いたので吉祥寺へ。ワイズフォーメンで半袖シャツを一枚購入し、すぐに事務所へ戻る。O社PR誌、Z社ウェブサイトなどで動きあり。
 
 十九時、帰宅。中野バードクリニックから「きゅーを引きとりに来てほしい」という電話を受けたので、カミサンとふたりで迎えに行く。どうやら籠のなかの温度が足りなくて、食欲不振になっていたらしい。ここ数ヶ月で体重が極端に落ちたため、気温の変化に躯がついていけないらしいのだ。病院内の保育器――というのだろうか――のなかはつねに三十二度に保たれている。このなかでは、先生もあきれ返ってしまうほど元気だったと説明された。きゅーのヤツ、しっぽがピンク色に染まっている。水のなかにアガリクスと肝機能の薬、そしてビタミン剤をいれていたのだが、これがピンク色をしている。籠のなかで大暴れして、そのたびにしっぽが水のなかに浸り、くりかえすうちに白かったしっぽがあざやかに染めあげられたということらしい。保温について、再度説明をきいてから――うりゃうりゃのときにも保温の説明は聞いているのだが、今回は「すきま風などにも配慮して」といわれた――、病院を出る。
 
 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』。パブリック、ガーデンに集まる猫たちは探偵面して名無し猫君の主人殺害事件――密室殺人だ――の謎を解くことにやっきになっている。漱石の作品では、猫君は麦酒を飲んで水瓶に落ちるのだが、この作品ではその後猫君は何者かに助けられ、そして気づかぬうちに上海に、何者かによって連れてこられたことになっている。水瓶に落ちてから上海行きの船中で目を覚ますまでの記憶を失っていた猫君に対し、記憶喪失の時間が少々長すぎるのではないか、そこに謎を解く鍵があるのではないかと主張する虎君の説明を聞いたときの猫君のモノローグがおもしろかったので、引用。一部、すぐに変換できなかった旧字体は新字体に改めている。
 ◆◆◆
 寝ている時は凝っとして居るのだからよいが、起きて活動した挙句に自分がした事を何も覚えて居ないでは甚だ具合が悪い。猫でも人でも意識が皮の如く連綿と続いて居る安心感があればこそ、自分は自分、人は人と澄まして居られるので、意識が何処かで途切れて居るとなれば、何だか自己の存立を脅かされるような心持ちになる。自分が自分でないような気持ちになる。
 ◆◆◆ 
 
 
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五月二十七日(火)
「定義好き」
 
 八時起床。今日もはっきりしない空模様だ。
 
 今日だか昨日だかの日経新聞に、名前は失念したがある作家が登山についてのコラムを書いていた。山の天気についても触れられていた。たしか「雨には雨の、霧には霧のよさがあることはわかっているが、ついつい晴れわたった空にそびえる山の景色を期待してしまう」といったことが書かれていたはずだ。人間とは定義する生き物だとかなんだとかいう話をどこかで読んだ記憶がある。なんでもかんでも、はっきりさせ、あらゆる事象に潜んだ法則やらパターンやら意味やらを見つけ出し、定義するのが好きな生き物なのだ。だから、今日のような雨なのか曇りなのかよくわからない天気は本能的に嫌悪感を感じてしまうのだろう。もっとも、人間の「定義好き」が本能によるものなのかどうかは知らんが。調べる気もない。
 
 九時、事務所へ。午前中はO社PR誌の企画。『社長失格』がベストセラーになった板倉雄一郎氏のコラムのテーマ案を考える。
 十五時三十分、九段下のD社へ。ビジネスソリューションの総合パンフレットの打ちあわせ。いつまでたってもコンセプトが決まらないような気がする。先方も自分たちのビジネスの全体像が掴みきれていないようだ。ぼくはコピーライターとしてクライアントの事業方針をしっかり理解しなければいけないのだが、それが曖昧模糊としていてつかみどころがない。そこに形を与えてやることからはじめる必要がある。苦戦。
 打ちあわせ後、雨はいよいよ本格的に降りはじめる。はっきりしない空模様には不快感を感じたが、はっきりしたらしたで、やむ気配のない雨に嫌悪感を感じてしまう。身勝手だなあ、オレ。
 
 帰社後は事務処理、そしてD社パンフレットの作業。
 
『『吾輩は猫である』殺人事件』。百日紅の木のうえから、見せ物小屋を観察する猫君と虎君。パンダの登場に驚くところがカワイイと思った。そして猫君は、この見せ物小屋で多々良三平君を見かける。謎は地味に広がりつづけている。こういう手法は推理小説のものだな。作者の狙いはまだ見えてこない。なに企んでるんだろ。
 
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五月二十八日(水)
「フニャンで四十分/ヤクザなインコ」
 
 花子が遠くで、なにかを要求しているような調子で鳴きつづけている。フニャン、フニャンという声のリフレインが「起きれ、起きれ」と聞こえてしまう。「起きろ」ではない。「起きれ」が正しい。いずれにしても、おかげで夢を中断されてしまい、珍妙で摩訶不思議、波瀾万丈な冒険活劇といった内容の夢だったのだが、舞台も登場人物も話の流れも細かな部分も、すべてきれいさっぱり忘れてしまいもったいない思いをしている。時計を見ると、午前三時を指していた。ったく、と思いつつ蒲団をかぶるが、花子の「起きれ」はまだつづく。しぶしぶ起きあがり、ご飯を与えてやる。このとき再び時計を見たら、三時四十分だった。つまり、ぼくはフニャン、フニャンを聞きながら四十分間放心状態でまどろみつづけていたということになる。損した気分だ。
 
 八時起床。快晴とまではいかないが、空は晴れ、明るい陽がリビングに射しこんでいる。陽の光は残念ながら鳥籠までは届かず、そのせいかインコたちは天気がいい日には決まってキョキョキョと大声で機嫌よく鳴きつづけるはずなのだが、今日は二羽ともおとなしく、あまり動かず、止まり木のうえにちんまりと留まっている。公園のベンチにじっと座っている老夫婦みたいだ。こっちは両方とも男――推測――だが。しかし窓を開け外の空気をいれるとたちまちぷちは元気に動き回りはじめ、元気よく鳴きだした。流れこむ新鮮な空気に反応したのではなく、窓を開けたおかげで聞こえた、スズメ、シジュウカラ、ヒヨドリといった外を飛ぶ野鳥たちの鳴き声に共鳴したらしい。トリという生き物は、ほかの個体の鳴き声に興奮する性質があるらしいのだ。ただし鳴き声が汚い。ゲッゲッゲとか、ギョギョギョという感じだ。ちびっこのくせに、凄みを効かせて野鳥たちに因縁をつけているのかもしれない。ヤクザなインコだ。
 
 九時、事務所へ。午前中はO社PR誌の見積、取材用ヒアリングシートの作成。午後はD社パンフレットのコピーに専念する。途中、飽きたので近所の『Rosso西荻窪』へ行き、髪を切る。切るというより、軽くしてもらった。二十一時、帰宅。
 
 夜、『マシューズベストヒットTV』を観る。くだらねえ。だけど、ついつい観てしまう。
 
 
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五月二十九日(木)
「痔」
 
 痔である。大便をすると肛門のなかが縦方向に裂けたような痛みを感じる。出血は少ないが、放っておいたらすぐに悪化するだろう。フリーランスとなり座ったまま作業をする時間が増えてから、年に一、二回、肛門の調子が悪くなる。座り仕事に痔が多いという話はよく聞く。右足首に骨腫瘍ができて入院したときも、おなじ部屋に痔で入院しているオヤジがいたのを覚えている。どうやら事務職についているサラリーマンらしい。彼はぼくがはじめてベッドについたその日だか前の日だかに手術をしたらしく、点滴をぶら下げた支柱を抱えながら、へっぴり腰でよたよたと便所へ向かっていったのを覚えている。病院から支給された寝巻はくしゃくしゃでズボンは膝のほうまでずり上がり、髪の毛はぐしゃぐしゃで寝癖だらけ、こけて青白く見える両頬には白髪交じりの無精髭がまだらに生えている。肛門をかばいながら、ゆっくりと、おぼつかない足取りで歩くオヤジの姿に、ぼくは事務屋の哀愁を感じたものだ。しかし、ぼくもおなじような境遇となるのは御免被る。ここ一週間くらいは毎朝晩、薬局で購入したプリザエースを塗っているのだが、あまりよくならない。以前は三日も塗布をつづければ痛みはすぐに引いたのに。ぼくも齢三十三歳にして哀愁の痔オヤジとなってしまうのだろうか。
 
 八時起床。肛門がやや痛む。毎朝軽く体操をするのが日課なのだが、ちょっとへっぴり腰になってしまったかもしれない。大便をするとひどく痛む。便のなかに折ったカッターの刃でも混じっているんじゃないか、と思うほどの痛みだ。もちろんカッターなぞ喰った覚えはない。便が痔を圧迫しているのだろう。
 
 九時、事務所へ。歩くくらいなら、どうということはない。とくに支障もなく、いつもとおなじような足取りで歩いているつもりだが、はたから見たらどうなのだろうか。わからん。なるべく背筋をピンと伸ばし、ふらつかないようにし、棒になったような気分で歩くことにする。
 
 十一時、有楽町へ。SPの企画やマーケティングなどを手掛けているT社へ。某不動産系サービス会社のPR誌の打ちあわせ。新規なので、気合いが入る。もちろん、打ちあわせ中は痛みなぞ忘れている。
 十二時、H2数寄屋橋阪急のビルに入っている旭屋書店へ。交差点のところからH2のエントランスに入り、GAPの、おなじ形だけれどカラーバリエーションが豊かな売り場の真ん中をキョロキョロしながら突っ切って、本屋まで移動する。GAP、人気ブランドだがまるで縁がない。
 書店では仕事の資料などを購入。ハーバード・ビジネス・ブックス『ITマーケティング』、石原雅晴『発想するコピーライティング』、嵐山光三郎『死ぬための教養』。嵐山の本は、たんに興味から。死にたいわけでも、死に急いでいるわけではない。痔ぐらいで死んでたまるか。
 
 十三時三十分、西荻窪の万豚記で昼食。四川坦々麺。つづいてねこの手書店で、『週刊モーニング』、花村萬月『ゲルマニウムの夜』、阪本啓一『マーケティングに何ができるかとことん語ろう!』を購入。阪本啓一は、日本にパーミッション・マーケティングを紹介したコンサルタント。長屋暮らしの貧乏人、学歴としてマーケティングを学んだことはなく、旭化成で営業をしていたというめずらしい人物だ。
 
 十五時より事務所にて『ITマーケティング』『マーケティングに何ができるかとことん語ろう!』を読みかじりながら、D社パンフレットのキャッチフレーズを考える。が、痔の痛みが急にひどくなり、仕事どころではなくなってしまった。肛門がヒクヒクして、ときどきそのヒクヒクがズキズキに変わる。それが不規則なものだから、全然集中できないのだ。意を決し、肛門科へ行くことにする。ネットで調べたら、新高円寺に専門医がいることがわかった。すぐにそこへ向かう。
 
 その肛門科は、五日市街道から一本奥に入った道にある小奇麗なビルで開業していた。なんとかクリニックとか、そんな名前の町医者が好きそうな場所だ。肛門科=ウンコと密接な関係=汚いという図式が漠然と頭のなかにあったが、当然それは誤解に満ちた先入観で、そんなことをこの肛門科の院長に言ったら、ボコボコに殴られてしまうだろう。広くて清潔、裏通りなので陽が射さないのだが、室内はじゅうぶんに明るい。受付には二十歳ちょいくらいのピンクの看護医(というのだろうか)を着たおねーちゃんが気だるそうに座っている。このおねーちゃんは、いままでにいったい何人の痔に苦しむ中年サラリーマンや中小企業経営者、タクシー運転手、フリーランスのライター、デザイナーたちを出迎え、応対しているのだろう。合コンのときは、患者の話をして盛りあがったりするのだろうか。カラオケで「青いイナ痔マがぼくをせめ〜る〜」とか、変な替え歌を歌ったりするのだろうか。
 院長は背が低くて髭の濃い、中年の男だった。話しかたがちょっとねちっこい。肛門は粘膜でできているのだろうから、口調も粘膜質になってしまうのだろうか。わからん。院長は受付で記入させられた問診表を見て、「ああ、まだそんなにひどくないね」とすぐに決めつけてきた。症状を事細かに話してみると、院長はさらに「どうってことないよ」とでもいいたそうな顔つきになり、社交辞令みたいな口調で「じゃあ、なかを見てみましょうか」といった。いよいよか、と身構えてしまうが、おもしろそうだという期待感と、なにをされるのだろうかという不安とが微妙にいりまじって、おかしな表情をしてしまった。院長と目をあわせないようにして、「はい」と答える。
 ベッドに横になれ、といわれる。ズボンとパンツは脱がなくていい、膝まで下ろせば充分だということなので、そのとおりにする。チンコ丸出しで横になり、医師が来るのを待っていると、仰向けになって膝を抱えこむようなポーズをしろと指示される。情けないが、いわれた通りにする。チンコ、棒は自分のほうを向いているから院長には見えないだろうが、タマは丸見えだ。そして、肛門はもっと丸見えだ。肛門丸出し。肛門科での診察なのだから当然といえば当然なのだが、マルダシ、ということばに幼児系下ネタ好きの嗜好回路が敏感に反応し、またまた半分にやけたような、変な表情をしてしまう。が、もちろんぼくの顔は院長には見えないから気にすることはない。見えているのは肛門と、せいぜい尻のほっぺた、タマくらいなものなのだ。肛門になにか塗りたくられる。麻酔だ、とかいっているが、ただの潤滑剤なのではないだろうか。でも、塗られるとたしかに尻の穴がしびれてくるからやはり麻酔の一種なのだろう。変な気分になってきた。「それでは、機械をいれますからねー」といったや否や、院長は容赦なくぼくの肛門に、なんだかよくわからない異物を挿入した。う、と小さく声を漏らしてしまう。細長い棒状のもののようだが視認はできない。もちろん、肛門の感覚だけではその形状や大きさを予想することなど不可能だ。先ほどの麻酔のせいで、感覚も鈍っているのかもしれん。が、異物が入ったことははっきりとわかる。どれくらい奥まで入ったのだろうか。痛みを感じる部分を通りこして、もっと奥のほうまで達したような気がするが、実際はそんなことないのかもしれない。何度かグリグリと棒を動かすと、院長は「はい、もういいですよ」といいながら、スポンと棒を引き抜いた。挿入時間はおそらく十秒に達するか達しないか、そんなもんだ。はずかしいポーズから解放されたぼくは、ズボンをあげながら院長が挿入した器具とはいったいどれなのかを確認しようとしたが、じっくりベッドのまわりを観察するわけにもいかなかったので、結局わからなかった。
 診断結果は「裂肛」。長時間座りっぱなしだと、肛門がうっ血してしまい、その部分が非常に弱くなってしまう。そのため、便が固かったりすると、すぐに裂けてしまうのだそうだ。不潔にしていると手術が必要なほど悪化することもあるらしいが、ぼくの場合はそこまで進展していないらしい。イボもなく、脱肛もしていないとのことだった。職業を聞かれ、座りっぱなしでいつも文章を書いていると説明すると、イスに痔のためにつくられた専用クッションを敷くように指導された。軟膏も処方してもらった。ムアツフトンの西川がつくっている、真ん中のスポンジの取り外しが可能で体重が分散されるようにつくられている座布団を購入してから帰る。軟膏は薬局でもらった。
 帰り道、書店で石川賢『ゲッターロボアーク(2)』を購入。
 
 帰社後、十五万円のアーロンチェアに三千八百円の痔クッションを敷いてみる。カッコ悪いが、尻にはたしかによさそうだ。体重分散効果があるので、腰痛にも効くかもしれない。クッションに躯をゆだねるようにして、D社のキャッチフレーズを考えつづける。二十一時三十分、帰宅。
 
 お刺し身で晩ご飯。金目鯛、イカ、甘エビ、マグロ。ランカーとかいう名前の、ニュージーランド製の発泡酒を呑む。妙に甘くて、香りに癖がある。二度と買わない。刺し身はマグロ一切れを、花子と麦次郎に分けてあげた。
 
 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』。名無し猫君、催眠術でココロの旅にでかける。そして、伯爵、将軍、虎君、ホームズによる推理合戦の発表会が開かれる。
 
 石川賢『ゲッターロボアーク』。ロボットのくせに敵に噛みついたり、初代『ゲッターロボ』のときの敵だった恐竜帝国と手を組んでみたり、ゲッターザウルスとかいう気持ち悪いロボットと恐竜の合の子みたいのが登場したりと、ストーリーは相変わらずブッ飛びまくっている。ふつう、思いついても書かないであろうアイデアを、勢いと画力でねじ伏せるように漫画化してしまうのが石川賢の凄さだ。後半に敵が地球を破壊するために――というよりは、ゲッターロボを破壊するために――送りこんできた「ストーカ01」とかいう謎のドームが登場する。ゲッターがここに侵入しようとするのだが、ドームへの入り口を「ゾーン」といっている。ストーカにゾーン。はははは。タルコフスキーの『ストーカー』、ぱくったな。石川賢がタルコフスキーとは、ちょっと意外である。そして、ラストにはなぜか初代『ゲッター』で壮絶な死を遂げた巴武蔵が、ゾーンのなかの異世界の人間という扱い(?)で登場する。ここで第二巻はおわり。ううう。はやく次が読みたい。
 
 
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五月三十日(金)
「鳥籠を囲う」
 八時起床。昨日処方してもらった軟膏と痔対策クッションが功を奏したのか、肛門はさほど痛まない。しかし、だからといってすがすがしい朝を迎えることができたとうこともない。肛門検査の屈辱が深層心理をひっかきまわしたのだろうか、イヤな夢ばかりをたくさん見た。どれもこれも、内容は漠然としか覚えていないが、たとえば得意先から取引停止されてしまったとか、子どもにいっぱい食わされたとか、公私関係なく、散漫だが打撃力は侮れない、といった感じの夢のオンパレードだ。うひゃあ、と夢のなかでつぶやくたびに、目が覚めた。しかし、どういうわけか肛門検査なり痔なりが直接夢のなかに現れるということはなかったようだ。意外に症状が軽かったことに対するうれしさが、ココロの奥底に作用したのかもしれない。
 
 九時、事務所へ。雲は中途半端な速さで、淡く薄められたような色の空を流れていく。初夏と呼ぶには少々抵抗がある天気だが、陽射しだけは一丁前に強く、ジャケットの内側に汗がじっとりとにじんでくる。目の前を、ノースリーブの服を着た主婦が幼児を連れて自転車で通りすぎた。歩くたびにガサガサと音を立てる、ごわごわした目のつまった綿素材のジャケットを着込んだぼくととは、えらく対照的だ。やはりこの女性から初夏のさわやかさを読みとるべきなのだろうか。なんだかそんな気にはなれない。しかし、ぼくは自分のジャケットが少々邪魔だと感じはじめている。これが夏の訪れなのだろうか。いや、そのまえに梅雨が来る。梅雨と関係のふかい服ってなんだろう。ちょっとだけ考えた。
 
 午前中は銀行や郵便局をまわり、支払や入金確認。午後からはN不動産の新聞折込みチラシの原稿、D社パンフレットのキャッチフレーズ、B社PR誌の企画など。十八時、吉祥寺のユザワヤへ。アクリル板二枚、大型のカッターナイフ、プラ板切断用カッター、ビニールテープ、透明なビニール製テーブルクロスなどを購入する。
 
 帰宅後、アクリル板を切って三枚にし、ビニールテープでつなぐ。これで鳥籠の三方を囲んで保温するのだ。天井と正面は、透明のテーブルクロスをかぶせてやる。こうすれば温度調整が容易になるし、餌の補充や水の交換もしやすい。これできゅーがさらに快方に向かえば、と切望する。
 
 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』。やっと二百ページ以上を読み終えた。文体が明治的、というより漱石的で、慣れているわけではないから、ちゃっちゃっちゃっと読みすすめることができなくて困る。
 
 
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五月三十一日(土)
「威嚇好き/同義反復の力」
 
 休日出勤であるが、平日ほど時間にシビアになる必要はないので九時までは蒲団のなかにいようとゆうべは固く決心し、目覚まし時計は八時五十分になるようにセットした。十分間で起きあがるためのココロと躯の準備をするのがぼくのやりかただ。目覚ましをとめ、ああ起きなきゃと思い、はてなにか夢は見ただろうかとふり返り、そしてすこしずつ、今日はなにをしなきゃいけない日だったかな、と考えなつつ睡魔の呪縛から脱出をこころみ、膀胱の加減を確認すると、五分後に二度目のアラームが鳴りはじめる。再び目覚ましをとめたら、今度は躯のアイドルアップだ。まっすぐうえを向いて姿勢を正した状態で花子の名を呼ぶと、ヤツはすぐに寝室にやって来てぼくの胸のうえに乗る。花子を抱きかかえ、背中を撫で、顎のあたりをウリウリとさわってやる。これくらい躯を動かすと、けっこう目が覚めてくる。あとは起きるだけだ。三度目のアラームが鳴るまで花子を乗せつづけることもあるし、膀胱が悲鳴をあげはじめるので、アラームをまたずに起きだすこともある。
 ところが、今朝はこのパターンが一時間ずれる。それだけでみょうな気分になってくるからふしぎだ。目覚ましが八時五十分を教えてくれるまえに目が覚めてしまった。台風が接近中だというニュースを知っていたから、はて今朝はどんな空模様なのだろうかと耳を澄ましてみるが、あいにく雨音はきこえない。しかし陽は射していないので、降りだすのは時間の問題なのだろう。そんなことを考えているうちに、アラームは二度鳴った。二度目のアラームをとめるときに、麦次郎がぼくのアタマに腹をピタリとくっつけて寝入っているのに気づいた。花子がいつもほどぼくに甘えなかったのは、このせいかもしれない。
 
 十時三十分、事務所へ。雨足はすこしずつだが確実に強くなっている。窓を開けはなち、雨音を聞きながら仕事しようと洒落こんでみた。しとしとと降っている時分は初夏と梅雨のあいだで空模様が優柔不断に揺れ動いているようで、情緒的な気分がしないでもなかったが、これがときどき、ヒステリーを起こしやけくそになったオバハンの叫び声みたいに猛烈な降りかたに変ると、季節感などどこかへ吹っ飛んでしまい、台風接近という非常事態的な事実だけがそこに残る。ザーザーがドドドドドに変るたびにベランダに出て、外の様子を窺ってみる。人のまばらな西荻窪駅前に降る雨は、みょうに白っぽく見えた。
 
 十九時帰宅。義母が桃子を連れて来た。明日から義父のいる岡山へ行くので、あずけに来たのだ。あいかわらず興奮状態にあるようで、ぼくが声をかけるやいなや、口を大きく横に開いてシャーッと威嚇する。麦次郎にも威嚇する。花子と目が合っても威嚇する。つくづく威嚇の好きな猫だと思う。義母は二十時過ぎに帰った。残された桃子は相変わらず興奮しているが、ときおりさみしげな表情を見せ、窓の外をしずかに眺めたりしている。義母を探しているのかもしれない。この日記を書いている今、桃子は書斎の窓から外を眺め、自分専用のトイレが置いてある部屋の片隅をクンクンと臭いを嗅いで確認すると、プイとどこかへ行ってしまった。首輪につけた鈴の音だけが、どこからかチリチリと聞こえるのが、台風一過、じめじめして蒸し暑い部屋のなかで涼しげに聞こえてくる。
 
 奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』。伯爵の推理の発表が終わり、虎君に順がまわってきた。彼は、苦沙弥先生の事件は連続殺人であると主張する。その一人目の犠牲者は、なんと汁粉の食い過ぎで胃を壊して死んだ曾呂崎だった。上海租界の警察統治機構が情報操作したと虎君は主張する。
 このシーンで、おもしろい記述があったので引用。
 
 ★★★
 
「日本人は狡いからよ」と云うマダムは露西亜の猫丈あって日本人には良い印象をもって居らんと見える。
「どういう所が狡いのでしょう」と日本生まれの猫である吾輩は一応聞いて見る。
「どういう所って、兎に角狡いから狡いんだわ」
 同義反復の誤謬はアリストートルが論理学上の間違いとして真先に挙げて居る。無論女性の口吻にしばし載せらるる此論法を打ち破るのが容易ならざることに気がつかぬ程吾輩は迂闊ではない。細君などもよく此戦法を以て主人を凹ませて居った。吾輩が愚考するに、女性が使う場合に限らず、同義反復ほど強力なる論理は世にないと思われる。
 
 ★★★
 
 お見事。



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。最近、痔に悩まされている。

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