「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

 

二〇〇三年四月
 
 
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四月一日(火)
「桜か、梅か/ボンシイクとくいしんぼ」
 
 八時起床。天気予報では、今日の最高気温は十八度と報じている。四月初旬としては、かなり暖かなほうだろうと考えると、桜のやつらはきっと今までちょいと肌寒かったものだから花の出し惜しみをしていたところ、暖かさに上機嫌となって大盤振る舞い、バンスカと花を咲かせ、あっという間に散ってしまおうという、バーゲンセールを開催するデパートのような心境になっているに違いない、などと考えるのだが、はたして植物に心境なるものが存在するのだろうか。今年の桜は、妙に安っぽく見える。どうも、心魅かれない。心が動かない。日本の花といえば、という質問に、多くの日本人は「桜」と答えるのだろうが、ぼくは「梅」と、それも「紅梅」と答えたいのだが、どれくらい賛同者がいるのだろうか。一度調べてみたいが、どうやったら調べることができるだろうか。
 
 九時、事務所へ。何度かくしゃみがでる。そういえば、自分は桜の花粉アレルギーをもっていることを忘れていた。桜花粉症なのだ。だから、ぼくは花見ができない。いや、できないことはないが、それはレジャーではなく、ある種の修業めいた感じになってしまって、生命の息吹を感じる春という季節には、とても似付かわしくない、見苦しい醜態をさらけ出すことになってしまうのだ、たぶん。たぶん、というのは、桜花粉症が発症してから、ぼくは一度も花見をしていないからだ。いや、一度くらいは行ったかな。思い出せない。よくわからん。どうでもいい。
 
 N不動産、J社PR誌など。二十一時、終了。夕食は「ぼん-しいく」にて。カミサンは鶏団子とうす揚げの煮物、ぼくはブリとれんこんの中華風照焼き。どちらも家庭的な優しさがあるのだが、家庭では出せない微妙な美味しさ、こむずかしさを感じる。これを「食へのこだわり」と呼ぶのだろう。店内には絵本が何冊か置いてあった。そのうちの一冊『山ねこ せんちょう』(柴野民三・文、茂田井武・絵)を手にとって読んでみる。主人公の名前が「ボンシイク」だったのにびっくり。どうやら、店名の元ネタらしい。ナンセンスで奇想天外、独特の世界観に打ちのめされてしまった。読んでいる途中で、「ボンシイク」は「くいしんぼ」をさかさに読んだことばであることに気づく。スゲエ。料理より、こちらのほうが気に入ってしまったかもしれない。
 
 二十二時過ぎ、帰宅。
 
 武田泰淳『富士』。病院外での宴でのエピソード。宮様を自称した故に憲兵に撲殺(?)された嘘言症患者のことが好きだった百姓女と、処女懐妊を真実づける元性倒錯の精神病患者の口論に、精神科医見習いである主人公が乱入、ふたりを相手に喧嘩をふっかける。ちょっとひねくれた無礼講が呼び起こす歓喜による、中途半端な行動。引用。
 
 私は私が、患者になりうる、患者になりつつあることの快感と恍惚を味わった。味わおうとした。患者で有り得なかったことの不自由、屈辱、回りくどさをすべて突破して、何かしらあからさまな自然そのものの光線の下で裸の手足をのさばらせることの歓喜が、私を襲い、私をつつみこみ、私を持ち上げようとしていた。私の全身に、原始人、野生のほかに何物によっても飾られることなき類人猿の、あの毛、あの動物そのものの毛が生えしげりつつあるかの如くだった。
「さあ。きらってくれよ。いやがってくれよ。もう、ぼくは君たちに好かれたいなんて思うことは止めにしたんだからな。医者だって、人間であり動物であり野獣でありうるんだぞ。医者だって、欲情も欲望も、わがままも殺気も持ちうるんだぞ。こういう具合に、いじめてやることもできるんだぞ」と、私はころがった中里里江の腹部を右足でおさえつけ、それから左脚で、同じくころがっている庭京子の腹部を蹴っ飛ばしてやった。いや、やはり蹴ることはできなかった。私のズック靴は、決して女ふたりの腹部にさわりはしなかった。ただし私の足のあげ方、かまえ方はあきらかに押えつけよう蹴っとばそうとする意志を示していたのだ。
 
 
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四月二日(水)
「ねじくれ夫とドリル妻」
 
 四時三十分、花子に起こされてからもう一度床に入ったものの、なんだか躯がみょうにこわばって寝苦しい。腰と右大腿部に痛みを感じる。無意識のうちに痛みをかばっているのだろう、気づくとぼくは、ねじくれたような珍妙な寝相で寝入っている。眠りは浅い。花子の足音にもカミサンの寝息にも敏感に反応してしまう。七時四十五分、ちぐはぐなバランスの躯をかばうように起き上がり、トイレに行く。あと十分ちょっとだけ寝ようと思ったら、ぼくの寝場所はカミサンに占領されていた。こいつ、ダブルベッドに対角線上に躯を置いて、蒲団に巻きついて、ドリルみたいな格好で寝ていやがる。
 
 そんな調子だから、一日のリズムも狂いっぱなしだ。雨が降っている。気温は昨日よりかなり低い。ぼくの調子が悪いのは、どうやら天気の仕業らしい。桜の花も調子を狂わされ、花を咲かせるタイミングを計りきれないでいるのではないか。雨に濡れた花びらが何枚か、地面に張りついているのを見つけた。
 
 九時、事務所へ。N社、J社の取材原稿を取っ換え引っ換えするようにして書き進める。どちらも取材案件でページ数も多いため、まとめるのにかなりの労力を使うのだが、電話があまり鳴らなかったのが幸いしてか、なんとか予定通りに書き終えることができた。この取っ換え引っ換え進行もまたぼくのリズムを無茶苦茶に狂わせる原因なのだろうが、これは仕事だから文句は言えまい。二十時、終了。
 
 夜はくつろぎモード。『マシューズベストヒットTV』を見てばか笑いする。
 
 武田泰淳『富士』。物語はどんどん盛り上がっていく。暴走しかける病院就労者たちの欲望は、死んだ患者の幽霊の登場でどのように変化するのだろうか。
 
 
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四月三日(木)
「腰にレンジ/つぼみが好きだ」
 
 八時起床。腰が痛いので、レンジで温めて使うホットパックを腰に当ててみる。そのまま顔を洗い、朝食を摂り、歯を磨き、髪を整えた。その間およそ三十分。痛みはかなり和らいだ。
 
 九時、事務所へ。桜はかなりが花開いているが、まだつぼみのまま、じっとしているものもすこしばかりのこっている。ひねくれた性格のぼくは、花の美しさよりもつぼみばかりが気になってしまう。地面には、ほんのすこしだけ花びらが散っていた。昨日の雨のしわざだ。
 
 午前中は昨日書いた原稿の推敲作業。推敲は、気になりだすと止まらなくなるのがやっかいだ。そうこうしているうちに、事務処理とメールに使用しているウィンドウズPCが壊れる。LAN内にあるサーバにアクセスできない。突然落ちる。再起動しても、スムーズに動かない。仕方ないので、OSを再インストール。挙動不審の原因と思われる常駐ソフトをかたっぱしから捨ててみたら、すぐに安定した。これで三時間くらい無駄にしてしまう。午後からは新宿の紀伊国屋へ。J社PR誌の特集記事のために資料収集する。一万五千円ほど、通信関係の専門書を買い込む。重い。事務所に戻ってから、ひたすらそれを読み込んだ。難解。十九時三十分、店じまい。
 
 今夜もくつろぎモード。全国の貧乏さんを比べっこする番組を見てばか笑いする。
 
 武田泰淳『富士』。百姓娘と未亡人、そして処女懐妊を信じる精神病患者の言い争い。
 
 日記には泰淳の作品のことしか書いていないけど、ほかにもあれこれ読みかじっている。武田百合子『富士日記』、笙野頼子『愛別外猫雑記』、それから渡部直巳の評論。寝る前に芥川の短編を読むこともあるし。うーん、整理したほうがいいかな。
 
 
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四月四日(金)
「前倒しはやめて/黒い引き立て役」
 
 花子に四時半に起こされる。またご飯タイムが前倒しになる傾向にあるようだ。真っ暗のなかで缶詰めを空けるのは嫌なので、やめてほしいと思う。しかし花子は聞く耳を持たない。立派な耳がピーンと立っているのに、人の話なんか聞いちゃいないのだ、この女は。
 
 九時、事務所へ。桜は満開だ。つぼみを見つけるのがむずかしい、というよりも、どこにもつぼみなんか内状態なのだ。花の裏側に隠れた枝が妙に黒々と見える。豪華絢爛な花弁の引き立て役に徹している、というわけなのだろうか。
 
 午前中は掃除と事務処理をしていたら終わってしまった。午後はJ社の企画に没頭する。夕方、メール、スケジュール管理、事務処理などに使っているWindowsマシンがクラッシュした。突然壁紙が消えたので、なにかと思ったが原因はわからず、そのまま挙動不審な状態が続く。何度再起動しても正常な動きをしてくれなくなってしまったので、ハードディスクの初期化と再インストールを決意。この作業のために、二十二時まで事務所でうだうだしてしまった。Windows 98をインストールしていたのだが、もうサポートも打ち切られてしまった過去のOS、不安定さは誰もが認めるところなのだから、とっととアップグレードしたほうがいいのかもしれない。また出費かよ。悩む。
 
 武田泰淳「富士」。煙突から降りてきた少年。血まみれの鳩。
 
 
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四月五日(土)
「春の嵐」
 
 春の嵐、ということばをよく聞く。雨風は強いがぬるまったいような、中途半端な猛烈さをそのことばから感じ取っていたのだが、どうやらほんとうの春の嵐はそんなものではないらしい。今日の空模様は、嵐とまではいかないが、かなり激しい風が吹き荒れ、雨足も強く、せっかく満開になった日本人の心の拠り所、ソメイヨシノをメタクソにし、花びらをびたびたに濡らし、引きちぎり、地面へと叩きつけている。おまけに寒い。せっかくしまった冬物をもう一度引っ張り出そうかと本気で悩んでしまう自分の季節感のなさ、というよりは気候や自然に翻弄されっぱなしの情けなさ、青ッちろさが嫌になる。しかし、嫌になったところでぼくと自然との関係はなんら変りがないだろう。「自然と仲良くなろう」などという主張のもとでアウトドアライフを体験させる催し物があるが、ぼくはあの思想を信じない。人間がいるかぎり、自然は汚され、破壊されつづけるのだ。消費することが運命である人間が自然とよい関係を保つことは不可能だ。そもそも「仲良く」などと考えること自体が間違っており、不遜でさえあるのだ。人間は自然に生かされているのに、それを破壊せずにはいられない、一種のエディプス・コンプレックスに陥っている。ここからの脱却こそがエコロジーの基本なのだと思う。人間に自然はコントロールできない。仲良くなろうとすればするほど、ぼくらは自然を破壊することになる。ぼくらにできることは、その破壊の具合をすこしでも減らして、自然との共生を実現することくらいだろう。しかし、それが難しいことはきっと誰もが知っている。実際、ぼくは自然と呼ぶようなところはなきにひとしい都会――住宅地、だけど――に吹き荒れる「春の嵐」になりかけの大雨ですら、受け入れることができずに戸惑っているようなありさまなのだ。
 
 九時起床。十時三十分、事務所へ。昨日大破したWindows OSの復旧作業。Windows 98が信じられなくなったのでほかのOSにしたいと考え、雨のなか、吉祥寺のラオックスに向かう。マシンスペックとのバランスから、バージョンアップするならWindows 2000のほうが快適に使えるかと考えたが、なぜか最新OSのXPのほうが販売価格が安い。値段に負けて、こちらを購入する。あわせて、セキュリティソフトも購入。
 帰社後、インストール作業。ところが、使っていたマシンはエラーが出てしまい、うまくインストールできない。仕方がないので、休眠していた別のWindows マシンにインストールする。こちらも、OSが調子悪くてほとんど使っていなかったのだ。二台目にはすんなりインストールできた。あとは使用するソフトのインストールと、ネットワークの設定だけ。と思ったら、ここから先が長くてつかれた。ネットワークにはかなり悪戦苦闘してしまう。XPでのLANの設定方法は、初心者にわかりやすくしようとしすぎていて、かえって使いにくくなってしまっているのだ。すべてが終了したとき、時計は二十一時をまわろうとしていた。トホホ。二十二時、カミサンと焼き肉を食べてから帰宅する。
 
 武田泰淳『富士』。燃える富士。空襲を受けているのだろう。そして、それを皆に伝えようとする、自閉症の天才少年。これは、なにを意味しているのだろう。
 
 
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四月六日(日)
「思い入れは、ない/個展会場へ」
 
 三時三十分ごろ、花子に起こされる。おかしい。夕べ、日の出前に起こすなとよくいい聞かせておいたのに。
 
 九時起床。身支度しながら、今日からはじまった『鉄腕アトム』を見る。うーん、動きを重視しすぎていて、オーバーアクションなミュージカルを観たときのような恥ずかしさを感じてしまう。作画がレトロなのに、絵作りが凝りすぎているのもいただけない。まあ、ぼくはこの漫画にまるで思い入れがないから、どうでもいいのだが。絵の美しさは認める。平成『009』もこのくらいのレベルであってほしかった。ああ、『神々との闘い』篇のつづきが読みたい。
 
 十時すぎ、事務所へ。途中、おとなりの稲上さん夫婦とちーちゃんに会う。家族三人、仲良く井の頭公園にお出かけだそうだ。ちーちゃんも梶原の個展に行ったらしい。喜んでいたそうだ。そのちーちゃん、今日はなんだか眠そうである。
 
 夕方、時間を見つけて「ギャルリ カプリス」へ。やっと個展会場に行くことができた。会場でけいぞうと会う。今日も盛況だったようだ。絵も半分以上売れている。もう少し売れてほしいと思うのだが――残ると事務所に保管しきれない――十七時、カミサンと帰宅する。
 
 武田泰淳『富士』読了。最後は存在論、認識論めいた世界に突入してしまう。精神病という分野を人間の存在や事象の認識を語るうえで有効な手段とすることができた、秀逸な作品である。最終章『神の指』より、引用。たぶん、これがいちばんいいたかったことなんじゃないのかな。
   ★★★
 クマにとってもイノシシにとっても「富士」は存在してはいないにちがいない。存在するのは、餌と危険、音と敵のみちみちた地面の起伏、草原と樹木と溶岩にすぎないのだ。動物たちにとって、もっとも理解しがたい異常なる者は、ニンゲンなのだ。彼らは、我ら医師や我ら普通人が、精神病患者を異常なる者と感ずる以上に我らニンゲンをそう感じとっている。しかも困ったことに、そのもっとも異常なる者が、あたかも神の如く、彼ら動物たちに働きかけ、彼らを支配し、彼らに餌を与えたり、彼らから餌を奪ったり、彼らに妙なる楽の音をきかせたり、解放してやったりするのである。動物たちはニンゲンになりたいと思ったことなど、ただの一回もありはしない。しかし、ニンゲンはたえずニンゲンの判断によって、彼らを好きになったり嫌いになったり、つまり裁くのだ。もしも、ニンゲンに気に入られなかったら。ああ、おそろしいことだ。もしもきらわれてしまったら。ああ、おそろしいことだ。どういう風の吹き回しだろう。私が医師と患者の関係について、思いなやむときにはきまって、ニンゲンと動物の運命的なつながりにはなしが行きついてしまうのである。
   ★★★
 ニンゲンは知識や経験、道具、思考(能力)などを使って、自然界のありとあらゆるものを定義する。それは、ニンゲンが彼らの上位的存在として彼らに対峙し、観察することができるからだ。では、ニンゲンに対してはどなのだろう。ニンゲンとニンゲンは、常識的には対等なものであるはずなのだ。いや、そもそも、ニンゲンのほうが動物より上だという考え自体、間違っているのかもしれない。
 存在に対する不安は、どうやって解消すればいいのだろう。かつて、ニンゲンはこの問題を解決するために「神」を発明した。神によって、ニンゲンは定義され、それによって安堵した。しかし、どうやら「神」は死んだらしい。では、ニンゲンはどうしたらいい? 『富士』は、この問題に一筋の光明をもたらしてくれる作品だ。
 
 
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四月七日(月)
「葉桜とマイナーな花粉症」
 
 今日もどうやら暖かいらしい――ということが、蒲団のなかから気配でわかる。外気がマンションの壁を伝わって、すこしずつ染み込んでくるようなのだ――などと表現すると珍妙な気がしないでもないが、気温の気配というものは、どうやら確実に存在するようである。季節の気配よりもミクロなレベルで日々絶え間なく変化しつづける、デリケートな気配なのだ。
 
 八時起床。目が覚めると、猛烈に目がかゆくなる。桜花粉症だろう。ひどく頭痛がする。これもどうやら花粉症が引き起こしているらしい。毎年のことだ。普通の人とはずれた時期に苦しむものだから、なんだか妙に調子が狂う。まあ、ぼくの場合はつねに調子が狂いっぱなしだから、さしたる影響はないわけだが。
 
 九時、事務所へ。葉桜が目につく。花が盛んに散り、若い葉が枝のあちこちに、すこしずつ現れるころがいちばん桜の生命力を感じるのだが、それとほぼ同時期にぼくの目の痒さも最高潮に達する。
 桜のように、花が咲いてから新緑が芽吹く植物は、どれくらいあるのだろうか。落葉樹はみな、花が先なのだろうか。
 
 N不動産新聞折り込みチラシ、J社PR誌、O社埼玉支店折り込みチラシ、O社ウェブサイト用のコンテンツなど。
 十六時、九段下にあるJ社へ。帰りの東西線で隣り合わせた女性が、ずっと携帯電話のボタンをプチプチと押しつづけていた。ちょっと傷み気味の茶髪のロングヘアーに隠れて、顔はよくわからない。覗きこむ勇気もない。髪とケータイに隠れてシルエットやデザインがよくわからない黒い綿のジャケットと、やはりケータイに隠れてどんなデザインなのかわからないが、デニムの(たぶん)ロングスカート。年齢もわからない。わからないことづくしの彼女、おそらくメールに夢中になっているのだろうな、と考えつつケータイを横目でチラリと見てみたら、彼女はメールではなく『ぷよぷよ』の虜となっていた。結局、彼女についてわかったことは『ぷよぷよ』が好きだということだけだ。しかし、だからなんだというのだ、と自分で自分にツッコミを入れたくなる。
 二十三時すぎ、帰宅。
 
 奥泉光『バナールな現象』を読みはじめる。湾岸戦争がテーマらしいが、まだ読みはじめなのでよくわからん。風邪をひいた主人公に対して発した友人の科白、ウィルスに関する考察がユニークなので引用。
    ★★★
 ――ウイルスは生物の進化史の同伴者であって、生命の衣装に絶えず変化と方向を与え続けてきた、いわば生物にとっての「重要な他者」だからね。排除したり撲滅しようとする発想は根本的に誤っている。ウイルス感染とはむしろ生物が生物たることの基本条件でさえある。
    ★★★
 これを読んだ瞬間、ぼくはブッシュとフセインを思いだした。どちらがウイルスなのかは、あえて書かない。
 
  
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四月八日(火)
「苦しみの明け方」
 
 四時五十七分だ。時計を見たから、時間ははっきり覚えている。花子のヤツめ、また前歯のさきっちょのところで噛みやがった。これが、もうれつに痛いのだ。毛抜きで、一ミリにも満たないくらいの幅に先を広げ、皮膚の一番薄いところをギュッとつまんだときの痛さを想像してほしい。いや、実際にやってくれ。ぜひ。これを、今朝は一時間おきにやられたのだ。動物を飼うということは、その動物に自分が有効に使えるはずの時間を、すなわち自分の限られた人生の一部を無償で与えてやることだと考えているのだが、これは睡眠時間を妨げられても平然とし、ただひたすらに我慢しつづけるという意味ではない。といったことを花子にいいきかせたところで、状況はまったく変らないだろう。などと寝ぼけてはいるものの、痛みで中途半端に冴えている頭で考えていたら、六時ごろだろうか、今度は時計を見ていないのでわからないのだが、花子が廊下にゲロをした。吐くときの声が、空気がぱんぱんに入った風船をきゅっと握ったときの、掌とゴムとが生じさせる摩擦音みたいな、不思議な甲高さがあった。おそらく毛玉が腹だか胸だか喉だかに溜まっていて、苦しいのではないかと推察する。前歯でプチッと噛むのは、苦しさゆえの奇行のようにも思える。そう考えると、花子が妙にかわいそうに、そしていとおしく思えてきてならない。
 
 八時起床。『ズームインスーパー』や『特ダネ』では、アメリカ軍がバグダッドをかなり制圧したとかしないとか、フセインと血縁関係にある政府の高官の死亡が確認されたとか、そんなニュースを報じている。爆弾だか手榴弾だかミサイルだかわからないが、なにかが爆発し、人が巻きこまれている映像が一瞬流れた。この瞬間を、キャスターはまったく説明しなかった。説明は、米軍の軍事力、政治的策略、そして被害の具体的な統計数字ばかりだ。死とは統計や思想ではないのに、と言ってやりたくなった。
 
 九時、事務所へ。十一時、J社へ。印刷会社H社のPさんといっしょに営業活動。お会いしたNさんという女性、ぼくとおなじくらいの年齢だろうが、聡明で美しい方だ。hpのPDA、iPAQ 3800シリーズが3900シリーズのどちらかを愛用されていた。あんなごっついPDAを使っている女性ははじめてみた。もっとも、PDAを愛用する女性にお目にかかること自体、ちょっと珍しい。
 暁星学園の前の坂道で、散った桜の花びらが、風に煽られ、勢いよくうずを巻いているのを見かけた。桜吹雪ならぬ、桜竜巻だ。
 午後より八丁堀のD社へ。J社PR誌の打ち合わせ。十五時帰社。PR誌の原稿整理と資料整理。明日からは資料を読み込んで、週明けまでにわかりやすい内容の原稿に仕上げなければならない。二十一時、店じまい。
 
 奥泉光『バナールな現象』。時系列、文体、ストーリー。これらが、いずれも微妙なレベルで奇抜だ。
 
 
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四月九日(水)
「まぎれもなく戦場」
 
 八時起床。「ズームインスーパー」が物々しい雰囲気。どうやら、報道陣が宿泊していたホテルが米軍によって砲撃されたらしい。ビデオカメラを向けたカメラマンが、ロケット砲を構えるゲリラと見誤ったとか、アルジャジーラに恨みをもった米軍兵士の意図的な攻撃だとか、あれこれ言われているが、人が死んだことには変わりない。画面では、そのホテルに宿泊して戦場レポートをつづけていたらしいレポーターが、混乱しきった様子で現場の様子、そして砲撃されたときの自分の体験を語っていた。破壊されたホテル、そこはまぎれもなく戦場である。
 
 九時、事務所へ。J社PR誌、O社埼玉支店、E化学工業のウェブサイトなど。二十一時、店じまい。
 
 奥泉光『バナールな現象』。錯綜する時間とエピソード。しかし、読み手はさほど混乱しない。構成力の勝利、といったところか。
 
 
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四月十日(木)
「ストレスはゾンビのごとく/バグダッド陥落/融通無碍、変幻自在」
 
 嫌な夢を見た。見つづけるのがいやだったのだろうか、四時に目が覚めてしまう。嫌悪感を拭い去ることができずしばらく呆然としていたが、意識が定まり冷静になってくると、猛烈な尿意を感じはじめた。ベッドの片隅でまるまって寝ていた花子に、ぼくが目を覚ましているのが気づかれてしまう。しかたないので、厠で放尿してから缶詰めを開けてやった。もう一度寝る。今度は、サラリーマン時代に嫌悪感を感じていた下品な女性社員が夢に出た。どうやらストレスが溜まりに溜まって、それが古くなって心の片隅に干涸びそうになりながら放置されていた、風化寸前のストレスを生きかえらせてしまったらしい。ストレスはゾンビのごとく蘇る。
 
 八時、憮然としつつ起床。テレビでは、バグダッド陥落のニュースが流れている。あとはイラク国内での小競り合い程度だろうか。それでも、まだまだ人は死ぬはずだ。隣国に逃げたイラク軍の兵士も多いと思う。負け戦となると、イタチの最後っ屁とばかりに開き直って生物兵器を使うかも、などとおそろしいことを考えてしまう。生物兵器を開発したこと自体は悪かもしれぬ。しかし、それを使うのはイラクだけが悪いわけではない。使わざるを得ない状況をつくった他者にも責任はあるはずだ。
 
 九時、事務所には行かず荻窪駅へ。途中、墓地の裏手で八重桜の木を見かける。八重はソメイヨシノよりも花開く時期が遅い。淡い色の花びらが風に泳ぐなか、八重桜はしずかにつぼみを膨らませていた。
 
 十時、霞が関ビルへ。E化学工業にて打ち合わせ。終了後、この仕事を斡旋してくださったT社のN氏とお茶をする。シュークリームをいただいてしまった。恐縮。
 
 午後から、狭山市に住むウェブデザイナーのLさんと顔合わせ。終了後、E化学工業、J社PR誌など。十八時、カイロプラクティック。事務所に戻ってから、ひきつづき作業。二十時、終了。
 
 夕食は「ぼん・しいく」にて。ぼくは鶏と里芋のココナツミルク煮。タイのグリーンカレーのような味だが、なぜか玄米のご飯によく合う。カレーは融通無碍、変幻自在の料理法だ。カミサンは豆腐のグラタン。ここの豆腐は味が濃厚なので、チーズや挽肉に負けずにしっかり自己主張してくる。それがうまさの秘訣か。
 
 夜はテレビを観てダラダラしてしまう。よくないなあ。
 
 奥泉光『バナールな現象』。リアルな夫婦喧嘩の描写。
 
 
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四月十一日(金)
「希望の春、とはなかなかならない/漫画との差異」
 
 八時起床。九時、花が散り、点々と残る赤黒い額の部分と青々と重なる葉とが作り出すふしぎなマダラ模様を横目に事務所へ。桜が終わると浮かれていた気分を引き締めなければという気持ちになるが、ここ数年は桜花粉症のおかげで浮かれるどころか苦しめられているから、妙に感慨深くなったり意欲に胸を熱くするような心境にはまずならない。通勤のときに考えることは、今日一日をどう使おうか、そして一日の終わりにどんな日記を書こうか、そのふたつくらいなものだ。これは季節が移ってもまず変らない。
 
 E化学ウェブサイト、J社PR誌、O社埼玉支店など。もう終わったと思い込んでいたN不動産が突然企画変更となり、少々慌てる。二十時帰宅。
 
 夜、ドラマ『ブラックジャックによろしく』を観る。『週刊モーニング』で連載を読んでいるから、次の展開がわかってしまい、物語のおもしろさを純粋にたのしむことができなかった。これは漫画を原作にしたドラマのすべてに言えることだろう。物語を追うことより、漫画との差異を見つけることのほうに集中している自分に気づく。
 
 奥泉光『バナールな現象』。大学生の学習意欲という幻想について。幻想、というよりは共同幻想なのかもしれない。
 
 
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四月十三日(土)
「夢のなかでイメチェン/黄ばみもインコも、明日にかけてみることにしたよ」
 
 学生時代、スポーツショップ――というよりはスキーショップ――でバイトをしていた。昨年死んだ甥、この春死んだ伯母を弔った斎場のすぐそばにある。葬式のたび挨拶にいこうかと考えるが、東京から日帰りでやってくるわけだから、なかなか時間がつくれない。それが後ろめたかったのだろうか、夕べはこのスポーツショップの夢を見た。ここの店長は気のいいオッサンでスキーもうまくてぼくは好きなのだが、若いころからスダレ頭に肥満気味のビール腹だったのが災いしてか、それとも理想が高いのか、原因はよくわからないが、いまだに独身を通している。仕事中に「いそちゃん。いまのネーチャン、ボインだったな」などと、鼻息を荒くしながらぼくに話しかけていたくらいだからホモではないはずだ。スダレ頭はかなり気にしていたらしく、暇なときはよくズボンの尻ポケットにしまってあるツゲの櫛を使って手入れをしていたものだ。その店長が、夢のなかでは真っ先に登場した。
 しかし、一点だけ現実の店長と違っているところがあった。彼は田村正和になっていたのだ――頭部だけ。店長は、立派なカツラをかぶってぼくの目の前に現れた。
 
 九時起床。外は晴れているので今日の天気予報は外れたかと思っていたが、空は見る見るうちに灰色になり、光は雲に閉ざされ、弱められ、分散し、やがて雨が降りはじめた。雨模様になる前に、事務所へ。s
 十一時より、事務所の打ち合わせ室にてぼくら夫婦が住むマンションの総会を行う。毎回場所を提供しているのだ。今回は出席者が少なかった。午後からはその議事録をまとめる。十七時、帰宅。
 
 夜、ちょいと襟首などが黄ばんできた白いシャツを漂白してみる。アメリカ製の強力そうな漂白剤を調達し、そいつに期待を託してみたのだが、どうもうまくいかなかった。インターネットで調べると、洗剤を入れて鍋で煮ると黄ばみがとれるらしい。明日にでもやってみようと思う。
 
 きゅーの体重が二十八グラムのままだ。また食が細くなっている。連日の投薬のせいか、人間不信に陥っているふしもある。これも明日になるが、友だちを用意してやろうと思う。
 
 奥泉光『バナールな現象』。気味の悪い夢について。
 
 
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四月十三日(日)
「ぷちぷち参上」
 
 きゅーの鳴き声に気づき、七時起床。珍しく、花子に起こされるまえに目が覚めたことになる。鳥籠にかけた風呂敷をはずし、猫にご飯を与えてから二度寝。十時、再度起床。ちょっと喉が痛い。
 
 朝食後、『ハローモーニング』を観る。モー娘。の神曲披露。衣装が変だ。歌も妙に気取った感じでよくない。やはり彼女らには元気の良い歌か、馬鹿な歌をうたってほしい。あややとミキティの「ハワイヤ〜ン娘」が最終回。気に入っていたコーナーであるだけに、残念だ。ふたりのアイドルとしての武器を駆使しつつもお笑いの基本に忠実で、コンビネーションも絶妙なぼけつっこみにアホ丸出しで笑いこけていたら、喉がさらに痛くなった。
 
 十二時三十分、外出。吉祥寺の百貨店のペット売り場やペットショップを何軒かまわる。きゅーの友だちを探しているのだが、生後二、三週間のまだ毛も生えそろっていないような子には何時間かおきに給餌しなければならないので、昼間は仕事をしているぼくらには無理。かといって、二ヶ月以上経ってしまうと手乗りにならなくなる。理想は生後一ヶ月から一ヶ月半程度で、ひとりで食事ができる子だ。これがなかなか見つからない。うろつけば、うろつくほど困る。喉も痛む。ひょっとしてぼくら夫婦はないものねだりをしているのではないかという考えに取り憑かれる。そう考えると、さらに喉が痛んでくる。どこかで薬とマスクを買わなければ。でも、そのまえに友だちを見つけてやりたい。
 新宿へ移動。小田急、高島屋、三越、伊勢丹と百貨店をはしごするが、インコを扱っているのは小田急だけだった。ここでも満足できる子は見つからない。喉の痛みはどんどんひどくなる。気が遠くなってくる。地下鉄で荻窪まで移動する。風邪なのだろうか。熟睡してしまう。目が覚めると、すぐに頭のなかはトリのことでいっぱいになる。しかし、喉は痛い。荻窪の西友にペットショップがある。ぼくら夫婦は、ここでしょぼい体毛をしたちびっこいインコが固まって寝ていたり、籠――じつは水槽だ。そのほうが保温効果が高い――の床に敷かれたワラをつついたり隣にいる仲間にちょっかいを出したりしているのを眺めているのが好きだ。だから、ここに最後ののぞみを託してみようと考えた。そののぞみはかなうのか。ないものねだりではないのか。それを確認するまえに、薬局によってマスク、葛根湯、ヴィックスの喉飴を購入する。喉飴を口のなかに放りこみ、マスクを装着する。ちょっと痛みが和らぐ。これで準備万端。さあこい、インコめ。新入りめ。ちびっこめ。マスクに顔を覆わせ、花粉症に苦しむ人のような風体で西友のペット売り場へ。近づくだけで、インコ独特の鳴き声が聞こえてくる。籠のなかに入れられた小動物が、ずらりと棚に並べられている。セキセイインコのひな鳥もいた。三羽いる。店員に話を聞くと、まだご飯は練習中だが、三羽いるうちの二羽は、もうひとりでもある程度食べているという。どうやら、さほど手はかからなそうだ。いちばん元気のよさそうな子を引き取る。二八〇〇円、税別。淡い青紫の羽で、頭のてっぺんがレモン色だ。色は違うが、顔つきというか、表情がなんとなくうりゃうりゃに似ている。胸に熱いものが込みあげてくる。喉の痛みも忘れて、家に連れ帰った。途中、お寺の境内に八重桜が咲いているのを見つけた。この子に見せてやろうかと思った。うりゃうりゃにも見せたいと思った。
 
「ぷちぷち」と名づけた。カミサンが名付け親だ。由来はよくわからん。うりゃうりゃもオノマトペ(擬音)的な名前だったから、ちょうどいいと思うので賛成した。ぷちぷち、環境の変化に驚いているふうだったが、すぐに元気に鳴きだしたので、きゅーも興味津々のようだ。猫も興味津々だ。ぼくらももちろん、そうなのだが。相性が合わなかったときの用心のために、当面は別々の籠で育てる。どう育つだろうか。きゅーは元気になるだろうか。うりゃうりゃ、ちゃんと見守っていてくれよな。頼んだぜ。
 
 夜はカミサンがぷちぷちときゅーを遊ばせているあいだに、シャツ四枚にアイロンをあてる。それから、黄ばんだ白シャツの漂白。沸騰したお湯のなかに洗剤を溶かし、そこにワイシャツを入れて、三十分煮こむ。冷ましてから、手でもみ洗いする。これでかなり黄ばみと襟回りの汚れが落ちた。驚く。
 
 奥泉光『バナールな現象』。尾行する男。消える妻。ラマーズ法。伏線と受け取るべきか、メタファーと受け取るべきか。たぶん、どっちでもいいんだろうな。
 
 
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四月十四日(月)
「風邪ひきました」
 
 七時二十分起床。喉がひどく痛む。午前中、病院へ。薬をもらう。
 夕方より発熱。ひさびさに高熱が出る。仕事を断念し、帰宅。
 
 
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四月十五日(火)
「風邪を治しています」
 
 九時起床。熱はやっと微熱程度まで下がったが、今日は休養することに。一日中、猫といっしょに寝る。
 夜、ぷちぷち、きゅーを外に出していっしょに遊ばせてみる。ぷちぷちはきゅーのほうに行きたいとさかんにあとを追いかける。きゅー、ぷちにきつい攻撃をしかけようとすることも。だが、じっとしているときもある。仲良くなるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
 
 
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四月十六日(水)
「風邪が治りかけています」
 
 七時三十五分起床。昨日までは十時をすぎないと目が覚めない様子だったぷちぷちだが、今日は朝から大騒ぎをしている。幼鳥のセキセイインコ独特の、ちょっとムクドリに似たキョロロロロという鳴き声を控えめに響かせている。きゅーはむっつりした顔つきで、それを聞いているのかいないのか。しばらくすると、きゅーも動きだした。ごはんをガツガツと食い散らかしている。
 
 八時四十分、事務所へ。昨日一日休んだだけで、メールサーバには三十メガ近くのデータが溜まってしまったため読みだすのに時間をくってしまった。連絡事項の確認だけ済ませて、近所の病院へ。診察してもらった一昨日の夜、ひどい高熱が出たよと報告すると、薬を変えられた。抗生物質は下痢を誘発するらしいので、ビオフェルミンも調剤してもらう。風邪っぴきのウンコたれというのはカッコ悪いとつくづく思う。ゲホゲホいいながら便所で痛む腹をかばい、ウンウンと唸ったり出るものをその勢いにまかせたり。
 J社PR誌原稿など。午後より久々に代官山へ。O社本社の打ち合わせ。社長のUさんに過保護にされてしまった。事務所の温度だとかなんだとか、いろいろ気を遣わせてしまった。風邪を引いているからだ。過保護というのも、かなりカッコ悪い。ゴホゴホと漏れる咳を抑えながら、微熱でクラクラする頭とうまくまわらない口で、あれやこれやの親切に「ありがとうございます」とか「お気になさらずに」とかいいつづけたり。
 
 帰社後もJ社PR誌。二十時帰宅。
 
 帰宅後はアイロンをかける。ぷちぷちはどうやらニンゲンの声を聞くとうれしくなって鳴くらしい。きゅーはまだムッとした表情だ。コミュニケーションがうまくとれず、イライラが募っているのだろう。いずれ時間が解決するだろうが、さしあたってはどうしたらいいのか。
 
 奥泉光『バナールな現象』。「心に砂漠はあるか」という問い、偽エコロジストのクソ学者――作中では「鴉」――、攻撃されやすい男。
 
 
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四月十七日(木)
「期待外れなクリムゾン」
 
 咳が出はじめた。呼吸器の調子が狂うと、生活のリズム全体が狂ってくるように思えるから不思議だ。息、イキ、気。息とは気のことだと考えれば、調和した気が健康な肉体を維持すると考える東洋医学の思想がバカチンなぼくにもなんとなくわかってくる。が、そんな高いレベルの話はどうでもいいし、考えたくもないのが正直なところだ。今はとにかく、風邪を治したい。咳するたびに夜中に目を覚ましてしまうのをどうにかしたい。途切れ途切れの睡眠のせいか、断片的な夢ばかりを大量に見る。これもまた困りものだ。夢は暗喩的に記憶に残る。どう解釈したらいいのかなどと、また余計なことに心奪われてしまう。
 
 八時起床。暖かい。ぷちぷちは今日も機嫌よさそうに鳴いている。
 
 九時、事務所へ。春を通りこして、初夏がやって来たかのような熱さだ。ジャケットのなかで、汗がジワリと浮き出てカットソーの生地にゆっくりと染みこんでいく。躯が上気するので、まだ微熱があるのかと勘違いしてしまう。だが、不快ではない。
 
 十一時、外出。進行中のJ社PR誌の資料を調達に。クライアントからファクスでいただいた資料のオリジナルらしき書籍を見つける。専門書だというのにわかりやすくまとめられている点に好感と興味を抱く。ほかの書籍を狙っていたのだが、結局これを買ってしまった。帰社後、夕方まで数時間かけて熟読する。LANの解説書なのだが、今までよくわかっていなかったレイヤ2とレイヤ3の違い、ルータとスイッチの違いがこれで明確になった。
 
 十七時五十分、外出。新宿の厚生年金会館へ。キング・クリムゾンのライブを観に行く。ひとりだ。カミサンはエレクトリック・ギターアレルギーだからいっしょに行ってくれない。クリムゾンを聞く友だちは、実家がある古河市にひとりだけいるのだが、平日はさすがに出てこれないだろう。しかたがない、というか、ひとりのほうが気楽に愉しめるので、少々マニアックなコンサートは友だちを誘わないようにしている。
 肝心の内容だが、愉しめたものの、思ったほど盛り上がらなかった。全演目の大部分を占める新譜と前作からの曲の演奏のクオリティはかなりのものだが――エイドリアンは歌詞を覚えておらず、一曲だけだったがアンチョコ見ながら歌っていた――、新譜も前作ものめり込むような作風とは言いがたく、したがって愛聴もしていないわけだから、そんな曲を延々とやられたって、あまりうれしくない。『Thrak』から、『VROOM』と『Dinasour』の二曲が演奏されたが、練習不足なのか、今ひとつメンバーの息が合っておらず、ちぐはぐで稚拙な感じすらした。八〇年代、七〇年代の曲はまったく演奏せず。そのような構成にしたクリムゾン側の意図もよくわかるのだが、やはり一、二曲は古の名曲を聴いてみたいものだ。『二十一世紀の精神異常者』をデジタル・クリムゾン/ヌーボー・メタルで演奏したらどうなるか、などと夢想しているファンも多いことだろう。
 
 二十一時三十分、事務所に帰社。残務をかたづけてから帰宅。二十二時。
 
 帰宅後、夕食。貧乏を自慢するバラエティ番組を観る。
 
 奥泉光『バナールな現象』。追う男。追われる男。
 
 
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四月十八日(金)
「汗か、暑さか/波打つ米、踊る技巧」
 
 八時起床。天気予報で、今日は今年初の夏日になることを知る。暑さよりも、汗をかくことのほうがきついと感じる。汗腺から吹きだす水分をぬぐいつづける苦労と面倒臭さより、暑さに起因する生理的・心理的な不快感が勝ってしまったら、これはもう真夏だ。熱射病で倒れる寸前の状態だろう。
 
 九時、荻窪駅へ。薄着の人が多く、初夏の雰囲気をすこしだけ感じたのだが、周囲の緑の深さがまだまだ春の趣きで、これがどうにもしっくりこない。ちぐはぐな季節感に頭を狂わされながら、中央線、東西線と乗り継ぎ、十時に九段下へ。J社PR誌の打ち合わせ。
 
 十一時三十分、荻窪のNTTでブロードバンドに関する資料集め。そのままルミネへ。新星堂でキング・クリムゾン『The Collectors' King Crimson Vol.7』を購入。つづいて『洋食亭ブラームス』で昼食。スペシャルドライカレー。食べながら、コックたちのあざやかなフライパンさばきをじっくりと観賞する。大きなフライパンのうえで、業務用ガスレンジの焔に踊らさせるチキンライスが、昔映画で観た津波のように動いているさまは何時間みつづけても飽きない。それがただの物体ならたちまち関心を失ってしまうだろう。しかし、踊っているのは米、ぼくらの主食、食べ物なのだ。しかも、その米はしっかり上手に踊らせないと、ちっともおいしくならないのだから不思議だ。あの躍動感が美味の秘訣にちがいないのだ。チキンライスとはなんと技巧的なのだろうかと感心する。自分がもぐもぐと食べつづけているドライカレーも、つい数分前までフライパンにあおられていたことを考えると、今にも米粒が口のなかやら胃袋のなかでどさっどさっと波打ちはじめるのではないか、コックの技巧が腹のなかに乗り移ってきたのではないか、などとと思えてくる。
 
 午後からJ社PR誌、見積など。二十時、帰宅する。まだ体調は万全ではないので、残業は抑えている。
 
 奥泉光『バナールな現象』。不法侵入と日記の覗き見。
 
 
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四月十九日(土)
「こけし屋のカレー」
 
 夏は着実に近づいていることが、寝汗で濡れたパジャマでわかった。九時三十分起床。
 
 十一時三十分、事務所へ。すこし仕事。十二時ちかくなったころ、猫ヶ島のしまちゃんが事務所に遊びに来る。以前からほしくてたまらなかったかつおぶし削り器をいただく。吉祥寺の公会堂で伯母さんだか叔母さんだかが歌だか踊りだかよくわからないが、なにかを披露するというので、それをこれから撮影しに行くという。まえにもそんな話があって、そのときは西荻窪にあるレンタルカメラ屋で一眼レフのデジカメを借りたのを覚えている。訊いてみたら、今回もデジカメ借りてから会場に行くのだそうだ。
 十二時三十分、カミサン、しまちゃん、ぼくの三人で昼食へ。以前mialofaさんと食事したことのあるほびっと村のカフェに行ってみたが、なぜか今日は閉店。仕方ないので、こけし屋のランチにする。二人はカツレツ、ぼくはカレー。はずれだった。明治の味がする、と思った。
 
 午後より会社のホームページのリニューアル作業。十九時、ようやく終了した。型破りな横スクロールデザインである。コーディングがめんどくさくてスライスした画像をそのまま貼り込んでいるので、かなり重い。でも、デザインは満足だ。
 
 夜、またきゅーの食欲が落ち元気もなくなってきたので不安になる。フォーミュラという栄養価の高い餌を無理やり食べさせ、そのあとですこしぷちぷちと遊ばせたら、たちまち元気になった。不安定な健康状態がつづくのは、精神的な不安定さにも起因しているはずだ。それを取り除いてやることができないでいる。飼い主失格だな、こりゃ。
 
 奥泉光『バナールな現象』。日記を盗み読みするシーンがつづいている。一九九一年一月末から二月にかけての日記。ちょうど湾岸戦争が勃発した時期だ。ぼくはこのころ、単身でドイツに旅行に行っている。当時の自分を思い出した。青臭かったなあ。孤独に関するくだり、ちょっと引用。
   ★★★ 
 「犀のごとく独りさまよう」ニーチェの貴族主義は、東洋的な超脱、漂泊の思想と用意に結びつく。本来は両者はまるで異質であるにもかかわらず。東洋人は共同体から出てしまえばとりあえず独りになれるが、ヨーロッパ人が真に孤独になるのは難しい。空間的な距離をとっても、神や倫理や法は空間的ではないから、どこへ逃れてもついてまわる理屈だ。神を殺し、倫理を撃ち、法を破壊してようやく孤独になれる。その苦労と苦痛を無視して彼の孤独への意志を愛し、賞賛するなどは、考えてみれば随分甘えた話である。急に嫌になった。何度も嫌になったあげくの嫌悪である。もう二度とニーチェは読むまいと誓う。それにしても自分はいったいどこにいるのだろうか? 漂泊――? そんな安易な物語に果して安住できるのか。
   ★★★
 
 
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四月二十日(日)
「だらだらと」
 
 十時すぎ起床。外は雨だ。肌寒いような気がするが、よくわからない。家のなかにいるからなのか、それとも全身の皮膚が温度差に鈍感になったのか。鼻水も咳痰もまだ止まらない。鈍いのは風邪のせいだということにしておく。
 
 一日中だらだらと読書をして過ごす。奥泉光『バナールな現象』、渡部直巳『現代文学の読み方・書かれ方』、『群像』など。
 
 
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四月二十一日(月)
「寝汗の疑問」
 
 七時五十分起床。また寝汗をかいていたが、外気はいくらか冷ややかだった。なぜ汗で体温を下げる必要があったのだろうか。自分の新陳代謝に疑問を抱く。
 
 九時過ぎ、事務所へ。事務処理、O社プロモーション企画など。十五時、税理士のNさんが来る。昨年度の決算の最後の手続きだ。何度かL印刷の方から電話。新しい仕事の相談だ。
 二十時、帰宅。
 
 奥泉光『バナールな現象』。現実と虚構の使い分けが巧み。渡部直巳『現代文学の読み方・書かれ方』。序文のタイトルは「チャリティ文学に唾せよ」。そのほとんどは村上春樹叩きだ。天皇という「不在の中心」をもつ日本という国と春樹文学の類似性の指摘。序文のはずだがかなり難解なので、読み切るのにけっこう時間がかかった。『バナール』を読了したら、この本で取り上げられている作品を読みつつ、書評と作者との対談の部分に目を通して「お勉強」してみたい。
 
 
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四月二十二日(火)
「リメンバー、マイバディ」
 
 目覚めると、胸から上だけがぼーっとした半恍惚状態になっている。もうろくしているというわけではない。まだ風邪の抜けきらない躯が、上の空で呼吸し、上の空で動いているような感覚。すでに炎症は治まっているはずの鼻や喉が自分のものではないように思える。まだ風邪のウィルスがそのあたりに残っているからなのだろうか。躯のパーツが偽物にすり替えられたようですらある。しかし、それらはやはり自分のものなのだ。咳をしたら痰が出たし、鼻をかんだら汁が呆れるほど出てきた。痰と鼻汁が自分の肉体を思い出させてくれる。リメンバー、マイバディ。
 
 八時起床。明るい朝陽がリビングを照らしている。麦次郎はいち早く起きだし、猫の本能なのだろうか。狭苦しくてがさがさしたカーテンと窓ガラスのあいだの空間に挟まるように、隠れるように身を置いてひなたぼっこをしている。花子は起きあがったぼくの足元をうろうろしている。トイレにまでついてきた。きゅーもぷちぷちもご機嫌そうに鳴いている。うりゃが生きていたら、大きな声でキョンキョンと叫んでいただろう。鳥籠を窓際に移動してやる。
 
 九時、事務所へ。O社プロモーション企画など。午後より外出。茗荷谷にある印刷会社へ。ここに行くのは初めてだ。途中で桜並木を見つける。幹のしっかりした桜が百メートル以上にわたり道に沿って並んでいる。二週間ほど前には可憐な花を咲かせていたのだろうが、透き通るような青葉を一面に広げた桜も生命力がみなぎっていて壮観で惚れ惚れする。学生のころ、葉桜の時期に花見をして「これじゃ花見じゃなくて葉見だよ」などといって残念がっていたことがあるのだが、今のぼくなら葉桜はもちろん花が散ったあとの桜も愉しめる。大人になったからというのではないだろう。以前より植物が好きになっただけの話だ。
 
 二十時、業務終了。
  
 夜、江角マキコが出演している国税局を舞台にしたドラマを観る。活劇。
 
 奥泉光『バナールな現象』。幻想文学みたいなケムの巻き方だなあ。
 
 
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四月二十三日(水)
「覆い隠された/西荻窪にチト似合わない坦々麺」
 
 薄ぼんやりとした空模様の朝は目覚めが悪い。それは猫たちもおなじようで、花子は朝ご飯をせがむ時間がいつもより一時間以上も遅れがちになる。麦次郎はいつまでも惰眠をむさぼりつづける。今日は花子に起こされるより先に目が覚めた。午前七時だ。花子は「しまった」とでもいいだしそうな表情でトイレから台所へと移動するぼくの顔を見ながら足早についてくる。
 
 八時、ちゃんと起床。九時、事務所へ。灰色の雲が青空と陽の光を遮断しているせいだろうか、季節がまるごと覆い隠されたようで、新緑が新緑らしく見えない。強く吹く風の音が、寒くもないのに冬を思い出させた。変だと思った。
 
 O社のプロモーションに明け暮れる。一日中とりかかっていると、さすがに飽きる。企画モノの仕事は倦怠と退屈との闘いだ。
 十一時、キヤノンビーエム高円寺の営業が来る。カラーレーザープリンタとモノクロコピーとファクスの複合機への切替えを勧められる。まだリースが残っているのだが、どうやらリースを一旦解約して、新たに組みなおすことができるらしい。省スペース化も実現できるし、なにより最近は満足いく印刷結果が得られないほどに劣化していたレーザーとうまくいけばおさらばできるかもしれないという点もうれしい限りだ。問題は月々のリース料金。今よりも高くなるのは避けたい。ちなみにこのプリンター、中型の国産セダンが一台買えるほどの値段である。
 
 二十一時、終了。坦々麺が売りの紅虎餃子房の系列店で夕食。ぼくは黒ゴマ坦々麺、カミサンは白ゴマ坦々麺。本格的な四川の辛口坦々麺。ほどよい辛味とコクがあって満足できる味だ。白ゴマのほうが酸っぱくてやや甘い。黒のほうが好みにあう。紅虎よりも若干安い料金設定もうれしい。近所の中華料理屋の客が奪われてしまうのではないかと、ちょっと心配になった。安くて美味いのはうれしいが、西荻窪にナショナルチェーンは似合わない。その点も気になった。しかし、紅虎は破竹の勢いで店舗を増やしているというのに、あまりナショナルチェーンらしくないところもある。それだけが救いか。
 
 きゅーとぷちぷち、ようやく気持ちが通じ合いはじめているようだ。今週末あたりから、おなじ籠に入れられるかもしれない。愉しみだ。
 
 奥泉光『バナールな現象』をすこし。中心の不在、かとおもっていたが、どうやら中心の二重化というのが正しいらしい。
 
 
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四月二十四日(木)
「思い出すのが遅すぎた/ニンゲンの子どもみたいな倒れ方」
 
 五時、花子に起こされる。外は暗い。
 
 八時起床。花子が早く目覚めたということは、天気がいいということかと思ったが、そんなことはなく、空は昨日とおなじような灰色で、眺めるだけで沈欝な気分になる。こんな日はろくなことがないのが相場だが、そう思い込まないよう自分にいいきかせながら身支度する。
 
 九時、事務所へ。O社プロモーション企画、E社ウェブサイトなど。十五時、カイロプラクティック。二十一時、終了。
 
「Y's Cafe」で食事。生ビール、コールスローサラダ、シーフードパスタ、合鴨とアスパラのパスタ。合鴨のほうは絶品だ。隣の席ではちょっと頭の薄い五十代くらいの男性と四十代くらいの女性が話に花を咲かせていた。男性はどこかで見た顔なのだが思い出せない。他人の空似か、気のせいか。あまり深く考えずに食事を愉しむことにしたが、ふたりが帰る間際に領収証をもらうときに口にした社名を聞いておどろいた。サラリーマン時代にいっしょに仕事をしたことがあるスポーツ専門のカメラマンの今井さんだったのだ。そこまで思い出したときには、すでに今井さんは店を後にしていた。挨拶ができず、残念だ。
 
 二十二時四十分、帰宅。鳥籠を覗くと、ぷちぷちが床の上で腹ばいになって倒れている。うりゃうりゃが危篤になったときとおなじ姿勢だ。大丈夫だろうか、何が原因だろうかと不安に思考を振りまわされながら「ぷち、だいじょうぶか」と何度も声をかけ、籠を叩いたりしてみたら、ぷちのヤツめ、すぐに起きあがり、止まり木のうえに止まって「へいちゃらだよ」とでもいい出しそうな顔つきでぼくらのことを見かえしてきた。どうやら床まで降りて、下にしいておいたティッシュペーパーをつついたりかじったりして遊んでいたら眠くなり、そのままそこで寝てしまったようなのだ。ニンゲンの子どもと、やることがいっしょだ。それとも死んだふりをしておどろかせようという魂胆だったのか。苦笑した。
 
 
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四月二十五日(金)
「消えてゆく主格」
 
 今日も曇天、気の重くなる空模様だというのに、花子は昨日とおなじように早起きだ。眠くて躯が動かないところを無理やり起きる。気力で起きたというのは正しくない。寝ぼけた状態では気力など湧いてくるはずもないからだ。
 
 八時起床。北朝鮮が核保有を認めるというニュースが流れている。隣人がこっそり懐にマグナムを忍ばせている、そんな感じがする。
 
 九時、事務所へ。すぐに外出。J社にて打ち合わせ。
 十二時過ぎ、西荻に戻る。それいゆで昼食。新メニューとしてハヤシライスが登場したとあるので試してみたが、甘ったるくて辟易した。食べるというより、堪えるといったほうが正しいくらい。この店には珍しいハズレメニューだった。
 十六時すぎ、再び外出。小石川のL社へ。二時間半も打ち合わせをした。喫煙の習慣を持たないぼくには、皆の吸うタバコがちょっと煙たかった。
 
 二十時三十分、帰社。以前いた会社の後輩、Oの訃報が届く。ここ数年音信不通だったのだが、それだけにショック。死因はわからない。明日葬儀に行こうと思う。
 
 奥泉光『バナールな現象』読了。消えてゆく主格。物語にならない物語。小説というスタイルへの挑戦――そんなところか。
 島田雅彦『忘れられた帝国』を読みはじめる。こちらも『バナール』に劣らぬほどに前衛的。初期の島田がよく取り上げていた「青二才」のテーマとは違うようだ。日本という国のゆがみ、いびつさを描こうとしているような気がするが、どうだろうか。まだわからない。
 
 
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四月二十六日(土)
「密葬」
 
 十時起床。午後からOくんの葬儀へ。密葬ということで、かなり略式で変った感じの葬式だった。悲しいのだが、その一方で進行方法への戸惑いも感じてしまい、わけがわからなくなる。しかし、火葬されるときにはあちこちで嗚咽が漏れた。ぼくは涙こそでなかったが、ことばもでず、動くこともできなかった。突然の死だったが、その原因はわからないままだった。棺桶に入れられたOの顔は傷だらけで痛々しかったこと。それから察するしかないが、憶測であれこれとは語りたくない。
 事務所に戻り、カミサンは仕事。ぼくは読書やプライベートの書き物を。二十二時帰宅。
 
『群像』五月号を読む。
 
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四月二十七日(日)
「空気清浄機を買う」
 
 十時三十分起床。昨日の葬儀で疲れたのか、まぶたも躯もいうことをきかない。
 午後より選挙へ。区長、区議会議員ともに女性を選んだ。生活に近い部分だから、生活のことをしっかり考え行動しようとする人を指示すべきだと判断した。結果はどうだろうか。
 投票会場である小学校までの道すがら、あちこちの家やマンション、ビルの生け垣でツツジの花が咲いているのを見かけた。あざやかな、桃色がかった赤いラッパ状の花びらが所狭しといわんばかりにびっしりと咲いているのを見ると、すぐそばまで近づいた初夏の陽気の暖かさに心が踊る。白いもの、ラッパが小ぶりなもの、紫に近いものなど、いろいろな種類があるのも愉しい。
 
 新宿へ。カミサンが五月六日からのプランタン銀座での猫展出品に使うラックを購入しに行くが、目当てのものが見つからない。カミサン、そのまま渋谷へ移動。ぼくは新宿に残り、伊勢丹のバーゲンでカルバンクラインのカットソー二着を購入。つづいてビックカメラへ。空気清浄機を買う。旬を過ぎ、処分価格になっているのではないかと踏んで売り場を覗いてみたのだが、誤算はなかった。六割引でHEPAフィルター付マイナスイオンタイプのものを購入できた。十八畳まで対応しているのもすごい。これで壊れかかったティアックの清浄機もお役ごめんである。いや、修理して書斎用にしようかとも考えている。捨てるには惜しいデザインなのだ。
 
 買い物後、事務所へ。電車に乗っているあいだ、メモをしようかとPDAを手にし電源を入れようとしたが入らない。また故障だろうかとちょっと慌てたが、事務所に戻りパソコンと接続すると難なく動く。切断すると動かない。どうやら昨日の夜にインストールしたソフトが不具合を引き起こしているらしいのだ。それを削除したら、パソコンに接続しなくとも正常に動作した。メモしたいときにメモができない。これはストレスが溜まる。
 
 十八時、帰宅。空気清浄機をセットしてから、もう一度外出。スーパーで食材と猫缶を購入する。
 夕食はカレーにした。カミサンがプランタンへの出品の準備でバタバタしているので、ぼくがつくることにした。まずいと文句をいわれた。たしかにいつもよりコクがない。バラ肉でなくモモ肉を使ったから、それからチャツネを切らしていたので替わりになるかと思いケチャップを入れたからだろう。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。帝国は“あいだ”に存在する、らしい。初期からそうだったが、この作者は象徴をつくるのがやたらとうまい。
 
 
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四月二十八日(月)
「犬と連休」
 
 八時起床。ゴールデンウィークとはいえ、今年は連休が少ないせいか日本中どこもかしこもさほど浮かれていないように思える。お祭りムードなのは六本木ヒルズくらいだろう。
 
 九時、事務所へ。事務処理、O社プロモーション企画など。
 それいゆで食事。昼時にこの店に来ると、ときどき大きな二匹の犬が店先につながれているのを見かけることがある。黒くて熊と犬の合の子みたいな風体の、秋田県ほどの大きさの雑種と、柴犬っぽいがそれにしては妙に毛足が長い雑種。どちらもかしこくお座りをして、主人の食事が終わるのを待っている。ぼくが入店してから数分後、主人らしい人物が席を立ち、会計を済ませると犬のほうに寄っていった。デニムのワークシャツにかなり穿きこんだ感のあるジーンズを身に付けたその男性は、外見だけで判断するとワイルドそうなのだが、顔の表情はいかにも動物好きのおじさんといった感じで、鋭さや粗雑さは微塵もない。犬たちはよくしつけられているらしく、主人が登場しても興奮したりせず、しずかにしっぽを振りながら彼のほうにそっと寄っていった。おじさんたちは自転車で去って行った。天気が良い。犬も、おじさんも、自転車も、ゴールデンウィークの明るい陽射しによく似合うと思った。
 帰り道で、いしだ一成そっくりの男を見かける。彼の母親は西荻に住んでいるか、あるいは住んでいたかのどちらかだったと記憶しているから、ひょっとしたら彼がこの街に来るか住んでいるか、その可能性はあるだろう。気になったので事務所に戻ってからインターネットで検索をかけてみたが、ひっかかるのは個人サイトの日記コーナーばかり、しかも二〇〇一年以前のものばかりだ。近況は結局わからなかった。
 
 夕方より外出。資料を探しに書店を回るが、いいものが見つからないため断念。時間が空いたので荻窪のカルディ・コーヒーファームでナムプラーとローズヒップティーを購入。オリンピックで猫缶と粟穂。古書店で笙野頼子『レストレス・ドリーム』、『文豪ミステリ傑作選 芥川龍之介集』、『ちくま哲学の森別巻 定義集』。帰社後、すこしだけ仕事。二十一時過ぎ、帰宅。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。島田風の昭和回顧小説といった趣になりつつある。汲み取り式便所についての記述が秀逸なので、引用。

   ★★★

 ぼくはいつから便器をまたぐようになったか、記憶は定かではないけれども、お尻の穴を向かい合わせる便器の穴が異界の入り口であることは早くから理解していた。そして、便器の裏側には糞を食う妖怪が一人で、もしくは所帯を持って暮らしていたことは誰に教えられるまでもなく、知っていた。「クソッタレ」という言葉はその妖怪が排便する人々に向かって唱える呪文である。ぼくたちは誰もが「クソッタレ」なのだけれども、こと妖怪がその言葉を唱える時は、「いつもおいしいうんこをありがとう」くらいの含みが込められている。

   ★★★
 
 
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四月二十九日(火)みどりの日
「今日の事件簿」
 
●花子が十時に事件
●足の裏事件
●三日目のカレー事件
●鞄のなかからきびだんご事件
●休みにアポ事件
●さいすけ事件
●義母がダイナブック事件
●芋焼酎ストレートで五杯事件
 
 
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四月三十日(水)
「さよならケメコ」
 
 今年のゴールデンウィークはめずらしくさほど忙しくなく、それゆえ気が抜けたのだろうか、それとも義母のパソコン購入に付きあい、わずか十三万円で掘り出し物的な商品を買わせることができたからだろうか、帰宅後は芋焼酎を義母からもらったタケノコとひじきを肴に、ガブガブとビールのような感覚で飲みつづけ、気がついたら瓶に四分の一程残っていた中身がすっからかんになっていた。そのせいか今朝は少々躯がだるいが、今週はまだ平日があと三日もあるわけだからそうもいっていられない。外は湿気が強く、喉がつまるような感覚に襲われた。傘をもって出勤する。
 
 荻窪駅から九段下のJ社へ直行。PR誌の打ち合わせ。帰社後は月末なので銀行巡りだ。十五時、ふたたび外出。三田のT社でZ社ウェブサイトの打ち合わせ。ここからは噂の六本木ヒルズが近い。いってみようかと思ったが、やめた。よく考えると、行く理由もやめる理由もないのに気づいた。ようするに、自分にとってはあまり関係のない場所だということだ。広告文士として、こういう流行りモノに関心を示さないということはかなりヤバイと思うが、まあいいだろう。流行や喧騒から距離を置くことで、見えてくることもあるはずなのだ。もちろん、そうしなければ見えないことに固執する理由もないわけだが。
 
 十八時、帰社。事務処理、メールなどを済ませて十九時三十分、帰宅。途中スーパーに寄り、明日から増税され値上がりする発泡酒を買いこんでおく。
 
 夜、『マシューズベストヒットTV』を観る。モー娘。保田圭の卒業記念スペシャル。爆笑の連続。さよならがしめっぽくならないというのがいかにも彼女らしいのだが、笑いで不透明な先行きを誤魔化したという感じがしないでもない。個人的には、モー娘。の歌唱力を支えていたのだから歌で大成してほしいと思う。お笑いに走るのがいちばん安易な道なのだろうが、それはできれば選んでほしくない。
 
 島田雅彦『忘れられた帝国』。すこしずつ生活に侵食しはじめる「あの世」、そして「死」。
 
 



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。モー娘。の保田圭のその後が非常に気になっている。

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