「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

■2002年7月

※文字の大きさ、変えてみました。


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7月31日(水)
「モログビ/イソガシ/ナゼパン/ナチスゴ」


 ここのところ働きすぎ。朝がしんどくなってきた。それでも八時起床。えらい。いつもどおりに出社する。気合いを入れるために、モロヘイヤジュースを一杯、グビッと。
 
 E社のDMが最後の佳境。要領がわるいのか、指示系統にみだれがあるのか、赤字が三十分おきにこまごまと流れてくる。そのたびに、O社のプロモーション企画のアイデア出しを中断。どうなることやら、と思っていたが十三時三十分ごろ、なんとか閉塞。ぶじ入稿することができた。やれやれ。
 
 十四時、昼食。
 
 夕方からはO社の件に集中。さいわい、電話もほとんどならなかった。途中、資料を購入するために吉祥寺のパルコブックセンターへ。「インターネット白書2002」。表紙はパンダの写真だ。なぜだろう。
  
 二十一時三十分、思考能力の限界を感じたので帰宅することに。
 
 二十二時より「東京庭付き一戸建て」。ああ、おもしろいなあ。キャラクター設定が絶妙だ。
 
 二十一時三十分より「マシューズベストヒットTV」。ゲストコーナーの総集編。やっぱりなっちが出た回がズバ抜けておもしろい。なっちは藤井のボケにつっこみをいれるのではなく、それをもとに独特の世界をつくりあげてしまう。ギャグをいうとのってくるけど突っ込みを入れない女の子がいるが、なっちはそれをエンターテイメントとしてきわめているのだ。偉大だ。えらい。すごい。
 保田圭の回もまあおもしろかった。邪険に扱われているところが。以後、この番組では保田はすっかり汚れキャラだ。いつも泥酔していることになっている。ははは。それから、松浦亜弥ね。かわいいのって、トクなんだなあと思った。

「ねむれ巴里」。すこししか読めなかったので、今日はなにも書けないなあ。
「藤原悪魔」。冬のアイルランドでの、宿命を感じずにはいられない偶然についての話。

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7月30日(火)
「陰の気が溜まる/万年筆さんこんにちは/書くことと感情」

  
 八時起床。いつものとおり、九時すぎに事務所へ。あわただしく支度をして、十時より外出。代官山にてO社プロモーション企画の打ち合わせ。
  
 午後からはO社プロモーションの情報整理、E社DMの修正対応、ハウスメーカーE社ウェブサイトなど。同時進行が多く、かつ円滑に進んでいるものが少ないので、陰の気がからだじゅうに鬱積しているような気分になる。
 
 十五時三十分、すこしだけ外出。荻窪に行き、E社企画のための資料収集。ストレスが溜まっているせいだろうか、ルミネにある文具店「ACT」で万年筆を衝動買いしてしまう。セーラーの「プロフィット21」。太さはMFだ。ちょっとだけ気が晴れる。たいせつにつかおう。
 
 もの書きや絵書きといった、直感をつかって仕事をする者は、どうしても作品が感情に左右されてしまう。ぼくもそれは同様なのだが、ぼくのは宣伝につかう文章を書く広告文士であるから、そういった一時の激昂などで内容が左右されてはならない。だから、こういう日は作業の能率が極端に落ちる。それでも、ぼくは考え、書かなければいけないのだ。
 
 二十三時四十分、帰宅。
 
「ねむれ巴里」。飄々とした文体。「どくろ杯」にあった、作品世界全体を覆う薄暗さはやや影をひそめている。そのぶん、「日本人の血」のようなものが強く、濃くなっているような気がする。
「藤原悪魔」。オウム事件、湾岸戦争、マスコミの情報操作。
「こころ」。時間感覚がきわめて暢気。明治のときの流れは、現代とはまったく異なるようだ。限られた時間を有効に使おうとする結果、せわしなく働きイライラを募らせていた今のぼくにとっては、この暢気さは反省の材料であり、一服の清涼剤でもある。
 
 
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7月29日(月)
「バタバタだったんですよ、今日一日」


 七時五十分起床。曇天。気温はまださほどあがっていないが、だからといって目覚めがさわやかだったというわけではない。いや、いつも以上に寝汗は多かったような気がする。寝巻きが水分で重く感じる。

 九時十五分、事務所へ。午前中は比較的平穏。いや、むしろ退屈。事務処理などをしつつ、指示を待つ。
 と、午後から波乱の幕開け。E社のDMの赤字応酬、O社ウェブサイトの修正、P社CD-ROMのコンテンツチェックの三連発で落ち着いたかなと思いきや、ハウスメーカーE社ウェブサイトのデザイン案のお戻し。ありゃまイラストが否定されちゃった。E社の客層にあわせてつくったつもりが、ちがうなんていわれちゃったらもう先が見えないよ、梶原どうしようか、まいったねー。なんてぼやいていたら、今度は十日前にプレゼンした不動産会社N社のキャッチフレーズのコンペ、発注先はウチに決まった、コンセプトも作品自体もよかったという評価だったが、いちばんえらい人のお気にめさなかったみたいで再提案を要請されて四苦八苦。コンペには勝ったがもろ手を上げて喜べない複雑な心境。やれやれと思っていたら今度は新規の仕事も舞い込んできて、電話、ファックス電子メールでてんやわんやの大騒ぎ。

 夕食は「桂花飯店」でからいタンメン。カミサンはごまだれつけめん。

 あいた時間をつかって、N社のキャッチフレーズを再考。アプローチを変えてみようかな、と思いつつ、万年筆をにぎり原稿用紙にむかう。おどろいたことに、出てきたのは、キャッチフレーズの対象となる商品(正確には、再開発都市のことなんだけど)を題材とした詩だった。できは悪いが、自分の思いは吐き出すことができた。あとは、これが出発点になるかどうか。うーん、それにしても、まさか無意識のうちに詩を書きだしちゃうとは…。小説やエッセイを書くのは好きだが、詩はほとんど書かない。「ポエマー」とかいわれてばかにされそうだからだ。でも、けっこういいかもしれないな。コピーライティングと詩の創作には共通点があるのかもしれない。

 二十三時五十分、収束。店じまい。

 今日はほとんど本を読まなかったなあ。それでも「文章読本」で写真家の土門拳氏の散文をひとつだけは読んだ。写真家は目の芸術家、かぁ…。


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7月28日(日)
「小川よビールはまだ早いんじゃないか/サングラスが呼んでいる/藤原新也のナラティブ」


 ぼくは自転車をとばし、西荻窪の女子大通りを抜けて眼科へ行く。眼科の名前は「高橋源一郎眼科」。なぜか中華料理店が待合室に併設されているという、変わり種の目医者だ。
 待合室で順番が来るのを待っていると、源一郎医師がぼくの目の前を通りすぎる。白衣の下に着込んでいるのは、何年か前のヨージ・ヤマモトのツイードのスーツだ。奥のほうには、なぜだろう離婚したはずの室井祐月がいる。こっちは白衣にミニスカート、網タイツというイメクラ嬢みたいな格好だ。ぼーっとしていると、突然数名の女の子が大騒ぎしながら待合室になだれ込んでくる。
 モー娘。だ。
 なっち、飯田、保田、加護、辻、それから小川真琴。矢口もいた。あとは誰がいただろう。わからない。思い出せない。
 なっちがぼくの横に座る。なっちとは、以前仕事で何度かいっしょになったことがある。、ぼくとはなんでも話しあえる仲良しだ。今日の仕事がたいへんだったことなどを、なっちはぼくに向かっていつもの調子の甲高い声でしゃべりだす。その甲高い声が心地よい。ぼくはもう、目医者のことなんて忘れている。モー娘。たちはニラタマやラーメンなどを注文する。ぼくもおすそ分けをもらう。なっち、矢口、飯田、保田が生ビールを注文する。ぼくもあわせて生ビールをもらうことにする。すると、なんてこった、まだ中学生の小川までもがジョッキを片手で持ってうまそうにグビグビやっているじゃないか。ピシャリ。ぼくは小川のアタマをそばにあった団扇でたたき、注意する。
「アイドルが飲酒したらダメだ!」
 小川は苦笑いしながら頭を抱え、ひとことあやまる。「ごめんなさい」
 なっちたちは中華を肴に、うまそうにビールをすすっている。
 というところで目が覚めた。
 思うに、これは
●二十六日に読み終わった高橋源一郎「日本文学盛衰史」をパラパラと読み返し、気になった箇所を、寝る前に再チェックしてメモしておいた
●日曜日は使い捨てコンタクトレンズの補充と検診を受けようと思っていた
●ヨージ・ヤマモトはお気に入りのファッションブランドだ
●室井祐月はタイプじゃないなあと思い続けていた
●日記には書かなかったが、夕食前に再度「辻加護判別ゲーム」に挑戦した
●ちょっと前、テレビで小川がインタビューに答えているのを見て「だんだんプロっぽくなってきたなあ」とつくづく思った
●ぼくはなっちが好きである
 ということが夢になって現れたのではないかと思われる。なんか、しょーもないなあ。
 夢に金子光晴が出てこなかったのが不思議だ。
 
 十時起床。テレビをつけたら「ためしてガッテン」の再放送が流れていた。はじめて見る。内容は、寝ぼけていたのでよく覚えていない。

 十一時三十分、「ハローモーニング」。なっちと親しげに話していた夢が現実のように思いだされ、オレはいい歳してナニを考えているんじゃ、と思いつつ、なんでオレはなっちと知り合いじゃないんだろうかと不思議に思ったりもする。だって夢のなかでは友だちだったぜ。あれ、夢って現実とは別のものなんだけ。よくわかんなくなってきちゃったよ。
 ……情けなさの極致。
 
 午後より吉祥寺へ。伊勢丹でハンドタオルを購入。ほかの売り場もうろついてみると、サングラスがセールになっているので、何個か気になったデザインのものを手にとり、試しにかけて鏡を覗き込んでみると、ありゃま、このJPGのサングラスはオレに「買ってくれ」と訴えかけているぞと感じてしまい、実際そのサングラスは今愛用しているものよりもデザインがいかしていておまけに今っぽく、見比べるとやっぱり愛用品のほうはちょいと古くさくてダサイかなあなんて気になってきてしまい、そうなるともう買わずにおれるかというような心境となり、日頃サングラスはかならずといっていいくらいかけていることが多いぼくだから、人相わるいよなんていわれても構わない、やっぱりオレにはサングラスなのさ、ということで購入を決意する。四十パーセントオフ。お買い得だった。
 ほか、コンタクトレンズ店で使い捨てコンタクトの補充。「ロヂャース」で猫のごはんなど。
 
 帰宅後、インコの加護、じゃなかった、籠掃除。つづいて台所の大掃除。スチームクリーナーと「激落ち君」が大活躍。疲れた。
 
 疲れたので夕食はピザで手短に。
 
 金子光晴「ねむれ巴里」を読みはじめる。昨日まで読んでいた「どくろ杯」の続きのお話だ。一人称が「私」から「僕」に変わっている。たしかにこっちのほうがしっくりくるかな。
 風呂で読む本としては、三分の二くらいまで読んでストップしていた藤原新也「藤原悪魔」を選ぶ。そういえば、ぼくの日記の文体はときどき藤原さんの書くものに似てくるときがあるなあ。なにか本質的なことを訴えたいと思うとき、文章は必然的に彼の語りかたに似てくる。なぜだろう。
 
 
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7月27日(土)
「辻加護判別/どくろ杯」

 
 九時起床。カーテンを開けようと思いリビングに行くと、なんだこりゃ、温室どころかサウナみたいに温度が上昇している。あわてて窓を開ける。外の空気を導き入れたら、気のせいか少しだけ涼しく感じられた。風があるのかな。
 
 十時三十分、事務所へ。休日出勤だ。E社のDM、N社のウェブサイト企画など。デザイナーのL氏と何度かやりとり。
 
「それいゆ」で昼食。いつものカレーセットとデミコーヒー。生き返る。
 
 午後からは待機の時間が多くなったので、金子光晴の文章を書写したり、石垣りんの短編や詩作を読んだり、小林秀雄のほとんど小説じゃねえかッてなくらい嘘くさい短編エッセイを読んだりして時間をつぶす。というより、広告文士としての文章修業だな。
 気晴らしにネットサーフィン。「モーニング娘。」で検索したら、該当サイトの多いこと多いこと。「辻加護判別ゲーム」なるコンテンツのあるサイトを発見。さっそくそのゲームに挑戦してみる。……ありゃりゃ。間違えまくって、あっという間にゲームオーバー。やっぱり、あのふたりは区別がつかないなあ。
 
 二十一時、業務終了。帰宅後、「釣りバカ日誌」を見る。ああ、のどか。第一作目は88年の作品。戸川の純様が若い。山瀬まみが痩せている。谷啓の頭髪の色が今より濃い。そして、三国連太郎のまゆげのふっさらさに圧巻。
 この夏は千円で最新作を公開する。ポスト寅さんは「虹を掴む男」が担うはずだったが、どうやら「釣りバカ」のほうが適任ということになったらしい。ぼくも新作の封切りが楽しみだ。
 しかし、そろそろ世代交代してもいいんじゃないかな。思いきって、全配役総取っ換え、水戸黄門みたいに。浜ちゃんにはパパイヤ鈴木を、スーさんには松方弘樹を推薦する。
 
「どくろ杯」読了。旅費に困ったため、とりあえず妻だけを船で巴里に向かわせ、自分はあとから金ができしだい追いかけようとする金子光晴。物語は次作「ねむれ巴里」へ続く。
 軽妙な文体で綴られる極限状態。絶望的な自由というべきか、自由という名の絶望というべきか。

 船底のまるい窓から覗いている彼女が船が離れてゆくにつれて小さくなってゆくのを眺めていると、ついぞ出たことのない涙が、悲しみというような感情とは別に流れつたった。「馬鹿野郎の鼻曲り」と彼女が叫びかけてきた。「なにをこん畜生。二度と会わねえぞ」
 罵詈雑言のやりとりが、互いの声がきこえなくなるまで続いた。彼女の出発について移った桜旅館にかえると、空中にいるような身がるさと湿地にねているような悪寒とを同時に味わった。そして、その翌日、バスに乗ってジョホール水道を越え、マレイ半島を、バトパハ、マラッカ、タイピン、スレンバン、クワラルンンプール、と縦断旅行を続け、ピナン島からスマトラにわたり、きりつめた旅をしながら、人間がだめになりそうな恥もしのんで、やっとフランス行の船賃をつくり、ピナンから支那船でまた、シンガポールに戻ってきた。その強情さにわれながら呆れるが、よくよくの愚劣な男でなければやらない道をよくも歩いてきたものだと、じぶんがわからなっくなったりもするのであった、少年の頃、友人と三人で家出をしたことがあるが、そのときもあとの二人が里心ついても私一人は、目的のアメリカの土をふむまでは帰らないと言い争ったものであった。七十六歳まで詩を書いているのも、おなじこころかもしれないこんな人間には、誰もかかりあわないことだ。避けることだ。

 自虐的な一言で作品はひとまず幕を閉じる。金子光晴にとって、自虐とは表現の動機であり、自己確認の手段なのでは……なんて思ったりした。
 
 寝るまえに「こころ」をすこしだけ。
  
  
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7月26日(金)
「事件/日本文学盛衰史」

 
 今日で三十三歳になる。正確に。
 戸籍と実際の誕生日が食い違っている。なんでこんなことになっちゃったんだろ。まあ、たいした問題じゃないが。
 
 十時、水道橋へ。ハウスメーカーE社ウェブサイトのプレゼン。接客室にとおされると、黒い革張りの豪華なソファー、白いローテーブルをぐるりと取り囲むように鎮座していた。偉い人になった気分だ。プレゼン内容は好評。
 
 十二時、新宿へ。資料等の買いだし。紀伊国屋書店にて金子光晴「西ひがし」。
 アルタの裏にある沖縄料理の店(といってもカウンター式のファストフードのような形態なのだが)でゴーヤチャンプルー定食。隣で食事していた六十代の老夫婦、どうやら沖縄から上京してきたらしい。おもしろそうなので夫婦の会話に聞き耳を立てていたら、おもしろいどころじゃない、とんでもない「事件」に巻き込まれているらしいことがわかり、驚いてしまう。
 息子は、上京して歌舞伎町で水商売をしていた。話からすると、どうやら派手なホスト稼業にはげんでいたらしい。ところが、一カ月くらい前から息子が音信不通になった。自宅は留守。お店にも出ていない。携帯電話も電源が切れたまま。まったく連絡が取れないのでふたりは上京し、彼のアパートを尋ねたが、若干の家財道具以外はなにもなく、もぬけの殻といってもいいほどの状態だった。探偵をやとい息子の行方を探してもらったが、なんの情報も得られなかった。ふたりは東京で、息子の写真を載せたチラシを飲食店などに配り歩いている。まだ情報はない。
 
 十三時三十分、帰社。E社のDM、N社ウェブサイト企画、O社CD-ROMなど。
 
 二十一時、帰宅。密度の濃い一日だったせいか、妙な脱力感に襲われる。
 
「どくろ杯」。香港からマレーへ。貧窮のどん底のなかで、パリへの旅は続く。この時点で、この旅が足掛け五年にも及ぶことを、金子光晴はどうやら予期していたようで、生き方にこれまで以上のしたたかさが見受けられるようになる。
「日本文学盛衰史」読了。文学の死と再生の物語は、近代の文学者の死、そして死を静かに待ちながら、せいいっぱい過去と現代を書き続けようとする作家・タカハシさんの瞑想で幕を閉じる。タカハシさんも、やがて死ぬ。多くの作品を残すだろうが、その作意が正確に未来に伝わるかはわからない。でも、文学は生き続けるはずだ。源一郎氏はそんな確信とともに、このラストを綴ったに違いない。

 何年前だったろうか。死の床に就いていた中上健次を見舞いにいくことになったのは。しかし、死にゆく人間になにを話せばいいのか。何度かためらったあげく、ぼくたちは連れ立って病室を訪ねた。だが、病室は空だった。ベッドの上には寝具がきちんと畳まれていた。
「あの」ぼくは廊下に走り出て、看護婦に訴えた。「いったい、この部屋の患者は……」
「中上さんなら、ついさっき、田舎へ戻られましたが」
 ぼくたちはよろよろと病室を出て、近くの中華料理店に入り、ビールを注文した。午前十一時、客は誰もいない。ぼくたちは黙ってビールを飲んだ。しばらくして、古井由吉が呻くようにいった。「なんということだ」。ぼくたちはそれに続くことばを息をひそめて待った。
「このビールの温さときたら!」
 
 ……ここまで書いて、ぼくはタバコに火をつける。
 人類が誕生してからいままでにいったい何人の人が死んだのか。問題は、誰も帰ってこなかったことなのだが。残されるのは言葉ばかりで、だから、ぼくたちはおおいに死者を誤解する。だが、やがてぼくもまた誤解される側にまわるだろう。
 
 赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がした。
 机を離れ、ぼくは静かに寝室のドアを開け、そして後ろ手に閉める。真っ暗な部屋の中の真っ暗な片隅のベビーベッドへ、ぼくは手さぐりで近づき、ゆっきりと身体を傾けてゆく。静かな寝息、立ちのぼる甘いミルクの香り。ぼくは軽い目まいに襲われる。この子がぼくの年齢になったときぼくはこの世に存在しないということが、なぜかぼくには大きな喜びだ。ぼくは闇のなかで音を立てずにUターンする。そして、ドアを開け、また閉めながらもう一度寝室の中を見回す。細い稲妻のような光がドアのすき間から真っすぐベビーベッドを貫いた瞬間、ぼくの頭の中に、こんな言葉が浮かんだ。
「ぼくの最初の記憶はドアがゆっくり閉まっていくところ。逆光を浴びて、ひとり男が立っている。その表情は見えない。いまから考えると、あれは亡くなった父親だったにちがいない」
 
 ぼくは瞑想する。
 すると、ひそかに聞こえてくる、滝壷の向こうに落ちていった一千億人の悲鳴。耳を済ませば、その中に、確かに未来のぼくの悲鳴も混じっているのだ。

 
 
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7月25日(木)
「占いで困る/悶える脳/手法の正当性/脱走猫野郎/サボテンと話す」


 今日で三十三歳になる。ただし、戸籍上だけ。正確には二十六日の0時十分ごろに生まれたらしい。これ、占いのときとか困るんだよなあ。たいした問題ではないが。

 午前中はN社のコンテンツ企画。おもしろいアイデアも出てきたが、数が揃わず。脳が悶える。
 
 午後からはE社のウェブサイトデザインなど。空き時間を使って「高校生のための文章読本」を読む。ためになるなあ。というより、自分が「これが正しい」と信じてやりつづけていた手法の正当性を論理的に説明してくれているのが、うれしいと思った。
 
 二十時、退社。近所の「ごっつお屋」で軽く誕生祝い。馬刺し、揚げ納豆、春巻きサラダ、明石の蛸のピリカラ炒め、ぶっかけうどん。
 
 帰宅途中、「ネコネタ。」にしょっちゅう登場する脱走猫野郎に会う。グリグリなでまわしてやった。ご機嫌よさそうに喉をゴロゴロならしてる。
 
 二十二時、帰宅。風呂で「週刊モーニング」。テレビ「ダウンタウンDX」。乙葉ちゅわんはサボテンと会話するらしい。ホルガー・チューカイといっしょだな。
 
 なんか疲れたので、今日はあまり脳みそを使わずに、このままはやく寝ようと思う。でも、きっとベッドのうえに寝そべったら「こころ」に手を伸ばしちゃうんだろうなあ。
 
 
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7月24日(水)
「懲りない猫/女性になった気分だわ/誘便作用」

 
 八時起床。今朝はなんのハプニングもなかったが、やはり花子はキッチンのカウンターのうえを徘徊している。懲りないなあ。まあ、しょうがないんだけどさ。
  
 十一時、築地のO社へ。コスメメーカーN社ウェブサイト企画の打ち合わせ。手の甲にファンデーションやリップを塗っては「ほほう」やら「ふーん」やら、感嘆詞を連発。ああ、女性になった気分だわ。あはん。前回の企画でつかったリップのサンプルを二本ほどいただいてしまった。女装でもしようかな。
  
 帰りの電車のなかで、B4版くらいの大きさのパンフレットを熱心に読んでいる四十歳くらいの女性をみかける。なに読んでるのかなと思い、ちょいと失礼、気づかれないように覗き込んでみる。どうやら神道系の宗教の教典のようだ。神社の参りかたやら祝詞やらがいっぱい書いてあった(ように見えた)。驚いたのが、本文の文字の大きさ。24級くらいあったのでびっくりした。老眼対策なのかな、ご年配のかたが読まれる機会が多いでしょうから。ちなみに、ふつうのグラビア誌で本文は13級程度が標準。
  
 十三時、帰社。何本か電話をしてから、通帳をもって銀行めぐり。帰りがけ、古書店にチラリ。店頭にあった100円セールの山のなかから、二冊ばかり購入。澁澤龍彦(一発変換できない…)「妖人奇人館」。ノストラダムス、カリオストロ、パラケルススといった、歴史を引っ掻き回した変人たちについての本らしい。澁澤さんらしいなあ。呉智英「読書家の新技術」。古典の読みかたとか、書評の読みかたとか。読書のノウハウ本。べつにノウハウがほしくて買ったんじゃない。この人の読書観が知りたかった。それだけ。
 話は変わるが、古書店に行くと必ずウンコしたくなってしまい、落ち着いて物色できない。急にくるのだ。もれそうになるのだ。なぜだろう。古書の臭いには誘便作用(↑勝手にことばをつくってしまいました)があるのかな。花子が便秘のときは、古書店に連れていけばたちまちウンコポットン、プリプリプリプリとなるであろう。
 
 二十一時、退社。ヤフーショッピングで注文した本が近所のセブンイレブンに届いているはずなので引き取りに行こうかと思ったが、小雨がパラつきはじめたのでやめた。
 
 二十二時、「東京庭付き一戸建て」。テンポがいい。ホームコメディの王道。山川って、ちゃんと演技できるんだなあ。
 
「日本文学盛衰史」。いよいよ最終章。二葉亭四迷の死からはじまったこの本、最後はどうやら登場する文豪たち全員の死で終わるようだ。死ではじまり、死で終わる小説。
「どくろ杯」。上海を発ち、欧州へと向かおうとする金子光晴。
 
 
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7月23日(火)
「カフォオレどっぽん/豪快チャーハンとなんちゃらかんちゃら」

 
 八時起床。
 
「あぁあああああああぉあああ!」
 カミサンの悲鳴。なんだなんだ、なにが起こったのか。キッチンに目をやると、ありゃりゃ、一面にカフェオレがぶちまけられている。逃げる花子。あぁああああああぉあああ。花子の左足がぐしょぐしょに濡れている。そしてキッチンには、倒れたコーヒーカップ。
 ようするに、こういうことだ。カミサンが朝食のしたくをしている。なにか食べ物がもらえるかも、と思い、花子はキッチンカウンターの上を徘徊する。そして、カフェオレが注がれていたコーヒーカップに、左足がドボン。バシャ。あぁあああああああぉあああ。 ったく、朝からやってくれたよ。カミサンが花子を追う。風呂場に閉じこめる。ぼくは風呂場に入り込み、花子のどっぽんとカフェオレに浸かり珈琲と牛乳の臭いをまき散らしている左後ろ足にシャワーの水をこれでもかといわんばかりに浴びせかける。浴びせかける。浴びせかける。
 ありゃま。花子め風呂場でおしっこちびっちゃったよ。
 というハプニングのため、いつもより出発が五分くらい遅れた。疲れた。汗かいた。
 
 日中はO社CD-ROMの絵コンテ、E社DMの構成、コピーなど。事務所に花子がいないからハプニングが起きない。集中できるなあ。
 
 昼食は「紅虎餃子房」にて。この店、チェーン店なので馬鹿にしていたが侮れない。今日注文した「チャーシューゴロゴロレタスチャーハン」という豪快なネーミングのメニュー、ウイキョウが効いていてとても美味。また食べようと思う。
 
 十八時、OさんからハウスメーカーE社のウェブサイトのラフデザインが送られてくる。なかなかいい感じだけど、もっと詰めていかなきゃ。
 
 二十一時三十分、業務終了。カミサンと「大戸屋」へ。昼の豪快チャーハンが効いているのか、あまり空腹を感じていなかったので豆腐ハンバーグの納豆のせなんちゃらかんちゃらとかいう定食に。カミサンは鶏唐揚げのなんちゃらかんちゃら定食。
 
 二十二時五十分、帰宅。「ぷっすま」を見て大爆笑する。花子、さすがに夜はおとなしい。
 
「どくろ杯」。端的にいえば「情けない男」なのだが、そんな印象を受けにくいのはやはり文体のちからか、無鉄砲な生き様のなせる技か。
「日本文学盛衰史」。わが子の誕生を待ちながら、幻想のなかで鴎外と育児について会話するタカハシさん。
「こころ」。柔らかに語られる、先生の厭世観。
 
 
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7月22日(月)
「容赦なく/空き時間で/要領悪く/見るに堪えない」

 
 八時起床。今日も晴天。夏の日差しは朝だろうと昼だろうと容赦なくアスファルトやらマンションの外壁やら屋根瓦やらを照りつける。アヂ。
 
 日中はほとんど実作業がないので、新聞の切り抜き整理、事務処理、不要になった書籍の整理などに精を出す。午後から、空いた時間を利用して「ロッソ西荻店」で髪をすこしだけ切る。こういう時間をうまく使わないと、伸びほうだいになってしまうのだ。
 
 夕方から眠っていた物件が動き出す。バタバタバタ。まあ、タイミングの悪いこと悪いこと。二十一時三十分、帰宅。帰り道に「猫の手書店」で、藤原新也「空から恥が降る」を購入。読むペースと買うペースが一致していない。よくない傾向だ。
 
「濱マイク」。今日の監督は最低だ。カメラワークが下手すぎる。見るに堪えない。六十分もあるドラマ、全編でカメラ固定しないってのはどういうわけだ? 計算し尽くしたアングルに人間的、肉体的、偶発的な要素である「手ぶれ」を加えて臨場感を出そうとしたのだろうが、脳みそが揺れているような感じがしてイライライライラ、ドラマどころじゃなくなっちまうんだよボケ。
 
「日本文学盛衰史」。内田魯庵と死にかけの尾崎紅葉の「丸善」での最後の会話。美妙の言文一致体。
 ベッドのうえで、麦次郎の腹やのどをいじくりまわしながら「こころ」。もったいぶった展開。これ、漱石の必殺技なのかな。
 
 
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7月21日(日)
「ブリリアント・トゥリーズ/残念な新曲/残念なオリジナルストーリー/『描かない』という技法」

 
 十八年前の今日、デヴィッド・シルヴィアンのファーストソロアルバム「Brilliant Trees」が発売された。時間が経つのははやいなあ、と実感する。あ。そういえば、オレあと四日で三十三歳だ。
 
 九時、飼い犬に手を噛まれる、じゃなかった、花子に手を噛まれ目覚める。いつものことながら、こればかりは慣れない。
 
「笑っていいとも増刊号」を見ながら朝食。十一時三十分からは、またまた「ハローモーニング」を見てしまう。モー娘。名義の新曲が披露されていた。またもや視線はなっちに釘付け。ああ、情けない。ところで、この新曲ははたして売れるのだろうか。シャッフルプロジェクトで色物的楽曲をリリースした直後だけに、「LOVEマシーン」や「ザ★ピース」のようなお祭り的モー娘。王道路線の曲はやりにくかったのだろうな。モー娘。はアイドルではなく社会風潮を反映する鏡のような存在のエンターテナーだと思っていただけに、スタンダードなポップスというのはちょいと残念。
 
 午後からは、仕事ではないのだが溜め込んでいたアイデアをただひたすらに文章にまとめつづける。楽しいんだか、楽しくないんだか。
 
 十五時、スーパーに買いだし。
 
 十七時三十分、「笑点」。講談なる演芸をはじめて見る。落語より威勢がいいぶん、聞いていて気分がよい。でも、これも落語から見たら色物なんだよなあ。昨日きくおを観たばかりだったので、親の顔を見ておこうと思い大喜利もチェックしておこうと思ったが、なんだか途中で見る気がしなくなってしまった。夕食の仕込みをはじめることにした。
  
 十八時三十分、仕込みを一度中断し、「サイボーグ009」。「ミュータント戦士編」なる、アニメ版オリジナルストーリーだ。キャラクターはタイムトラベルSFの傑作「未来編」をもとにつくっているらしい。ということは、「未来編」のアニメを観ることはできない、ということか。そうなると、009の最後の連載シリーズとなった「時空間漂流民編」もナシ、だな。残念。
 
 夕食は特製カレー。具は手羽先と夏野菜だ。最後にナスを生姜で炒めて、それをトッピングした。美味いが喰いにくかった。
 食事しながら、教育テレビの「新日曜美術館」。美輪明宏大先生を迎えて、竹久夢二の特集。夢二がドイツにわたり、バウハウスの流れをくむ学校で教鞭をとっていたことは知らなかった。ためになるなあ。夢二が女にだらしなかったといったプライベートなお話はなかった。さすがNHK教育。
 晩期の夢二の作品に見られる「描かない」という技法、そして受け手の想像力を信頼するという発想。山水画や狩野派などの日本画に見られるこの特徴、じつは文学にもあてはまるんじゃないかな。俳句はまさにこの世界。現代詩や小説にも、行間で語るという手法がある。「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく、やまぎはすこしあかりて」もしかり。
  
「日本文学盛衰史」。北村透谷と樋口一葉の文学討論。いや、男女論争かな。ラップで読む近代文学。「三四郎」のメタ小説。ここにも出てくる長谷川二葉亭。タカハシさんの、「文学」野間宏との接触、あるいは近代文学をつうじての、自己の認識。よーするに、「三四郎」を読んで、主人公に自分を重ね合わせることができた、ということかな。ああ、ようわからん。
  
  
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7月20日(土)海の日
「猫いじり/精神的な夏バテに/若手後押し落語会/沖縄を軽く/耳をすますようにして、見る」

 
 八時三十分ごろ、なんとなく目覚める。目覚めるのになんとなくもあるもクソもないのだが。で、小一時間ウトウトしつつ、麦次郎をいじったりしながらダラダラ。九時三十分、きちんと起床。「建てもの探訪」を見ながら掃除。「ののちゃん」「発見! ヒザポン」「ザ・スクープ」。テレビ朝日のオンパレード。
 
 十二時過ぎ、けいぞう(♀)と合流。タイ国ラーメン「ティーヌン」で昼食。ぼくはカイヤイトムヤム(だったかな?)という、トムヤムスープのきしめんのようなビーフン。カミサンは同じ麺のナーム。けいぞうは定番のバーミーナーム。アジアご飯のエネルギーは絶大だ。精神的夏バテに効果があると思う。
 
 十四時、杉並会館にて「若手あとおし落語会」を観賞。今日は「笑点」と「イヤン、バカ〜ン」でお馴染みの林家喜久蔵の息子、林家きくおの勉強会だ。前座は金原亭駒丸。開口一番、駒丸は「真田小僧」を披露。先日の立川キウイよりも格段にうまい。会場のウケもよかった。つづいてきくお。枕で爆笑。父親、二世タレントなどをネタに自虐的な笑いを引き出す話術はなかなかのものだ。ネタは創作落語(だと思うのだが)の「鯛」。いけすのなかで刺し身にされるのを、身の縮む思いで待ち続ける明石の鯛、本鯛の噺。創作落語というのは、構成力、演技力、そしてことば遊びの三つの要素がたいせつなんだなあと痛感。中入後、きくお「おしの釣り」。与太郎噺の一種だが、バカ丸出しの演技が父親にそっくり。稽古をつけてもらっているのだろうか。これからもがんばれ。「笑点」レギュラーの座を勝ち取るのだ!
 
 十六時、吉祥寺へ。伊勢丹で開催されている沖縄物産展を見物。黒糖のお菓子を購入する。ほかにもゴーヤのキムチやら島ラッキョウやらもろみ酢やらラフティーやら海ブドウやら久米仙の古酒やら紅いもソフトクリームやら豆腐ようやらシーサーの置物やら沖縄の陶芸やら琉球ガラスやらゴーヤチャンプルーの写真がプリントされたTシャツやら、気になるものは山ほどあったのだが、じっくり見ているとキリがなくなるので、軽く流しておいた。
 じつは沖縄に行ったことがない。来年あたり、仕事が落ち着いたら遊びにいこうかな。
 別のフロアでタオルなど。
 
 続いて東急にてハンカチ、ハンドタオル。
 
 パルコ。「Y's for Men」へ、先日購入し、裾上げを頼んでおいたパンツを引き取る。秋物新作もついでにチェック。スポーティラインは正直言ってあまり感心しないのだが、体育館のマットみたいなゴワゴワの生地をつかったシリーズはちょっと気になった。かたちがシンプルすぎるかな。
「パルコブックセンター」。川上弘美「椰子・椰子」、湯本香樹実「夏の庭」、チャールズ・ブコウスキー/山西治男訳「ブコウスキーの3ダース ホット・ウォーター・ミュージック」、大田垣晴子「東京リラックス」。
 
「カルディ」で冷麺、ミネラルウォーター、トマト缶などを購入し、帰宅する。
 
 夕食はタッカルビ。ビールがすすむ。
 
 二十二時、「美の巨人たち」。今日はニコラ・ド・スタールの「コンサート」という未完成作品。具象も中小もなく、すべてをけずりつくすことでたどり着くことのできる真実の世界。これは一種の「危険な領域」だったのかもしれないな。それくらい、ド・スタールの作品は力強く、衝動的で、本質的なのだ。しかし、耳をすますようにして見てみないと、なにかを見落としてしまいそうな、そんな絵だ。熟視してみたい。妖しい想像力をたずさえた新しいちから、今まで閉じていた感性の目が静かに開かれるような感覚が、観賞する者のなかにかならず芽生えはじめるはずだ。
 
「日本文学盛衰史」。啄木と漱石のエピソードの終章。文学という「状況」を文学作品とする試み。うーむ、けむにまかれたような気分。



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7月19日(金)
「塩田/京子ちゃんさようなら/吃音礼賛?/落ちる、ということ」


 オレは塩田か? 汗が渇いて塩になっちまっている。あーあ、お気に入りのYohji Yamamotoのシャツに塩のあとができてるよ。
 という事実に気づいたのは帰宅後。いつからシャツに塩田ができていたのかは知らないが、やはりこういうのはこっぱずかしい。いくらアタマでカッチョよく決めようと考えていても、皮膚や毛穴や汗腺は正直だもんなあ。

 八時起床。戸川京子ちゃん自殺のニュースに驚く。数年前の純様自殺未遂事件もショックだったが、いつかはこうなるかも、というファンとしての、ちょいと複雑で妙な心構えがあったのは事実だ。だから驚いた反面、冷静でいられる部分もすこしはあった。ところが今回は、まさかまさか、ということばしかでてこない。純様はアーチストとして好きだったが、京子ちゃんはタレントとして好きだった。姉より健全そうにみえるから、妙な心構えなんてものは必要ないと思い込んでいた。最近、ドラマでちょいちょいッと顔を見るようになったなあ、なんて想っていた矢先の出来事だ。自殺の原因をはやく救命してほしい。まずはご冥福をお祈りしたい。

 十三時三十分、O社のOさんと、E社ウェブサイトデザイン提案の打ち合わせ。十六時三十分、大崎にてN社への、二度目のプレゼン。うーむ、採用されればよいのだが。

 仕事の合間に「高校生のための文章読本」。

武満徹のエッセイがテキストとして掲載されていた。吃音礼賛の発話本能論、とでもいおうか。音楽もユニークだが、文章も負けないくらいに独創的。

 二十一時三十分、退社。焼き肉屋で夕食を済ます。

「どくろ杯」。落ちる、とはどういうことなのか。読み進めるほどに、金子光晴の想いが強く押し寄せてくる。 


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7月18日(木)
「子猫事件/原民喜という天才/どくろのさかずき」


 七時三十分起床。今日も目が覚めたらうつぶせになっていた。なぜだろう。

 八時三十分、事務所へ。九時には事務所を出なければならないので、手帖の整理(スケジュールの確認が主だが、それだけではない) と植物の世話だけチャチャチャッと済ませる。パキラの葉っぱがイヤーな感じに痛みだしている。暑さに負けているのだろうか。よくわからん。あとでもっと大きな鉢に植え替えてあげようと思う。

 十時、水道橋着。「ルノアール」で、L印刷のZさんらと待ち合わせ。十時半、すぐそばにあるクライアントのL社へ。ウェブサイトのコンセプトや構成についてのプレゼンを行う。好感触。来週末にデザイン案を提案することになった。気合いを入れねば。

 十三時、西荻着。「ムーハン」でマレー風カレー。二日連続のアジアご飯だ。
「ムーハン」の近所の中華料理店の店先で、まだ目も開かぬ猫の赤ん坊がヨタヨタとアスファルトのうえを歩いているのを発見。うわわたいへんだ、どうしようかと思っていたら、八百屋のオヤジがひょいっと子猫を掴み、日陰に、おそらくは母猫が根城にしているところに戻してあげていた。おそらく、八百屋の横の空き地でよくたむろしている猫たちの子どもだ。無事に育つだろうか。なんせ都会には猫の天敵が異様に多いのだ。そいつらの大半は「ネコギライノニンゲン」という種類のドウブツなのだが。心配になる。連れて帰っちゃおうか、と思ったが、さすがに生後数日の猫を、仕事をしながらしっかり育てる自信はない。ためらっている自分が情けなかった。

 十八時、資料を買うために近所の書店へ。例の猫のことが気になったので、八百屋の横の空き地へ行ってみた。すると子猫の姿はなく、空き地にはベニヤで作られた不格好なついたてが建てられていた。ついたてには張り紙があった。
「野良猫にえさを与えないでください。猫好きの人、つれてかえってあげてください。」
 どうやら、ここの地主が子猫の話を聞きつけ、これ以上生まれたら困ると思い強硬策にでたらしい。しかも、わずか数時間のあいだに。ナンダコイツ。猫の天敵め。共生、という発想はもてないのだろうか。
 張り紙にある「つれてかえって…」は、おそらく生まれたての子猫のことを指しているのだろう。子猫の姿が見当たらなかったから、、きっと誰かが連れて帰ってくれたのだろう。そうであると祈りたい。
 猫は野生では長く生きることのできない動物なのだ。ニンゲンにはこいつらを、責任をもって飼い続ける義務がある。野良猫を増やした原因はニンゲンのわがままさにあるに違いないのだから。

 仕事の合間に「高校生のための文章読本」。原民喜という詩人の散文(散文詩?)「鎮魂歌」に打ちのめされてしまう。原氏は被爆経験のある詩人。被爆の一年前には、妻を亡くしている。人間の死、悲壮さと絶望感のなかで人間の連帯感や生命の美しさを求め続けた、悲しい詩人だ。最後の段落だけ引用。


 僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕はここにいる。僕はこちら側にいる。僕はここにいない。僕は向こう側にいる。僕は僕の嘆きを生きる。僕は突き放された人間だ。僕は歩いている。僕は帰るところを失った人間だ。僕のまわりを歩いている人間……あれは僕 で は な い。


「どくろ杯」。題名になっているどくろ杯が登場するエピソード。ちょっとおもしろかったので、これも引用。


 秋田は、支那服の袖で額を一こすりして、
「こういうものがあるんだよ。誰か買いそうな心当たりはないか」
 風呂敷に包んだ桐箱入りのものを取りだして、砂糖黍や、菱の実の飴煮の乗っている円卓のうえに置いた。
「どくろ杯だよ」
 秋田の掌のうえには、椰子の実を二つ割にしたような黒光りした器がのっている。
「蒙古で手に入れた。人間のどくろを酒器にしたものだ」
 内側は銀が張ってあって、黒ずんでうす光りがしている。彼女は手にとろうとせず、気味悪そうにのぞきこんでいる。
「男をしらない処女の頭蓋骨だ。蒙古では貴重なものだが、まず、これを金にして足代をかせがなければね」
 私は、てにのせたどくろ杯を撫で回しながら、病死した女の頭を取ったのか、杯をつくるために女を殺したのかが気にかかったが、それについて秋田は、何も知らなかった。もうこの部落の酋長がそれで、馬の乳か、高粱の酒をのむのだろうが、万一、愛していた娘が、心によその若者を思ってなびかないのを憤って、首を切らせ、その首でつくった杯を手にしたのだったらそのときはどんな思いがすることだろうなどと考えて、私の御座敷用のヒュウマニズムがぐらぐらするのをおぼえた。同時にそんなものを玩賞用に需める骨董愛好者のざらざらした神経にもついてゆけなかった。妻は、私の腕をつついて、はやく箱にしまって欲しがったが、それよりもっと直接な理由からで、じぶんの頭の皮をはがされる痛さに実感があるかららしかった。


 金子光晴がこのとき、どくろ杯を詩人の目で見ていることは明らかだ。ただ、彼はこの次点ではどくろ杯が彼にあたえたさまざまな想いをことばにして吐き出してみようとは少しも考えていない。
 それにしても。「御座敷用のヒュウマニズム」か。ヤラレタ。


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7月17日(水)
「腹がかゆい/エビアングビグビ/元気が出るご飯/未熟な十代」


 腹がかゆくて目が覚める。八時。

 九時、出社。掃除もせずにそのまま外出。十時半から赤羽橋で打ち合わせがあるからだ。昨日の午後や一昨日ほどの猛暑ではないので、移動もさほど苦にならない。とはいうものの、汗はブワブワととめどなく吹き出てくる。喉も渇く。電車や地下鉄に乗っているあいだは冷房が効いているからいいのだが、乗り換えが少々きつい。赤羽橋についてからは汗がまったくとまらず。根を上げて、近くにあったコンビニに入り込み、エビアンを購入、店を出るやいなやクルクルッとフタを開け、ガバッと口に当ててそのまま一気にグビグビッと。ああ、生き返る。三十分ほど打ち合わせてから、事務所へ戻る。
 午後からは細かい対応に追われっぱなし。仕事は追いかけるものだ。追いかけられるのはキライだから、ストレスがたまっちまう。ときどきベランダに出て、外の空気を吸いつつストレッチをして気を紛らわせる。ふう。

 二十一時、業務終了。カミサンと「タイ風ラーメン ティーヌン」で夕食。ぼくは鶏挽肉と野菜をナムプラー風味で炒めたものがどかっとご飯のうえに乗せられた「ガイカップラーカオ」を、カミサンは細麺ビーフンの汁そば「センミーナーム」を注文。 夏の元気はアジアごはんから。エスニック料理はぼくのパワーフードだ。

 二十三時より日本テレビ「東京庭付き一戸建て」を見る。森下愛子、女優業完全復活だな。役者さんは当てられた役を完璧に演じるのが仕事であり、それが醍醐味でもあるんだろうな。

「日本文学盛衰史」。ビアガーデンで長谷川二葉亭の作品について語り合う漱石と啄木。そして、漱石の「こころ」の謎。最近は寝るまえに読む本としてこの作品を愉しんでいるが、確かに「なんでこんなこと書いてるんだろう」と思わせる部分はある。
「どくろ杯」。上海での、風まかせのように落ちていく生活。金子の周りに自然と集まる、人生の落後者たち。彼は、彼らと同じようで同じではない。妻のこと以外はすべて諦めきっているようだが、しかしなにかを捨てきれないでいる。詩への情熱はすっかり醒めているが、それでもなお彼の生き様は詩人としてのもののように感じられる。
 金子光晴という人は、追いつめられないと自分らしい生きかたを実践できないタイプの人間のようだ。優柔不断で見えっ張り、弱いくせに強気。なんだか自分のことみたいで、読めば読むほど恥ずかしくなってくる。ぼくが十代のころに読んだ詩作からは、そこまで感じ取れなかったなあ。読み取れないほどに未熟だった、ということかな。ぼく自身が。
 寝る前に、「こころ」を一章だけ。


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7月16日(火)
「軽々しく考えるな/高校生のための文章読本」


 台風がまた来る。日中に東京を通過するらしい。やばい。今度こそ大雨だ。ぜったいそうに違いない。どうしよう――と思っていたら、ちょっと強めの雨が降った程度でおしまい。あっけないなあ、なんて暢気なことを考えていたら、なんとまあ、お隣の神奈川県では土砂崩れやら浸水やら、かなりの被害があったらしい。ほかの地域も同様。災害というものを軽々しく考えるのは禁物だ、と痛感した。

 E社ウェブサイト企画、N社キャッチフレーズの代案、O社CD-ROMのコンテンツ原稿とデザインチェック、などなど。

 O社の仕事を進めていたときだ。資料を見たくなったので、「なまけ猫本舗ショールーム」兼会議室兼書庫でインターネットの入門書を引っ張り出そうとしたら、「高校生のための文章読本」という本を見つけてしまった。大学生のころに購入、何ヶ所かつまみ読みしたままだったのを、まだウチに社員がいたときに「勉強になるかな」と思い会社にもってきておいたものだ。忘れてた。仕事が一段落したところで、十数年ぶりにパラリと読み返してみた。やっぱりおもしろい。文章を書く、ことばで表現するということの本質を、この本は網羅していると思う。すごいなあ。あまりにおもしろすぎて、なつかしくて、ついつい巻頭にあったモーパッサンの文章をノートに書き写してしまった。ああ、勉強になるなあ。慢心せず、精進しなきゃという気になった。会社で仕事に疲れたときは、これでリフレッシュしようかな。

 二十一時三十分、帰宅。

「日本文学盛衰史」。朝日新聞の浴場で啄木に「書く」ことを勧める漱石。


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7月15日(月)
「身体の寝癖/筆でまんねん」


 うわっ、イタタタ。六時、花子にご飯をあげるために起床したら、身体全体がきしむように痛んだ。どうやら、肉体に寝癖がついたようだ。気がついたら身体は横向き、顔だけうつぶせだったもんなあ。寝相には気をつけようと思う。

 八時、ちゃんと起床。ありゃま、坐骨神経痛が再発している。身体の寝癖のせいか。湿布を貼って痛みを散らす。まあ、たいしたことはないだろう。

 九時十五分、出勤。汗汗汗。止まってから仕事しようと思ったら、一時間が過ぎた。あーあ。――あ、いや、そのあいだ、ずーっとぼーっとしていたわけじゃないんだけどね。事務処理とかを、してたわけですわ。

 B社のNさんよりメール。例のコンペ、ぼくの案はまだ生きているらしい。バリエーションの追加提案を依頼される。引き続き楽しませてもらおうかな。

 日中はE社ウェブサイトの企画に集中。セーラーの変わりだね万年筆「筆でまんねん」が大活躍した。夕方よりO社ウェブサイトの赤字修正対応。二十一時、退社。

 二十二時、「私立探偵 濱マイク」。今日のは演出過剰な部分が少なく、自然。しっかりキャラも立っているので、安心して見ていられる。

「日本文学盛衰史」。漱石と啄木の確執。
「盛衰史」がおもしろいので、題材となっている「こころ」を読むことにする。高校生のときに読んだような気がするが、忘れちゃったので読んでいないことにした。書きだしの文章は名文だと思った。


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7月14日(日)
「つらい/なさけない/つかれた/たのしみだなあ/あうなあ/おもしろいなあ/わからなくなるよ」


 うわっ、イタタタ。五時、右手に鋭い痛みを感じ、飛び起きる。花子に噛まれたのだ。アイツの歯はどういうわけか妙にとんがっているから、噛まれると堪らない。もちろん、ご飯のさいそくなのだろうが、こんなことをするのは珍しい。おそらく、執拗におこし続けていたが全然反応がなかったので強硬策に出たのだろう。しかたないので起床、ご飯をあげて二度寝するも、以後三十分置きに「起きてよ」といわれ続ける。つらいなあ。

 九時四十五分、ちゃんと起床。「笑っていいとも増刊号」を見ながら掃除、ブランチ。十一時半からはまた「ハローモーニング」を見てしまう。例のプロジェクトがクイズで対抗戦をしていた。ああ、オレってば、またまた気がつかないうちになっちのことを応援しているよ。なさけないなあ。
 午後からは思いついたアイデアを自宅にあるPowerBookに入力する作業。仕事ではないのだが、でも仕事みたいなものだ。つかれた。

 夕方、三十分ばかり「プロスペール」を使って背中のコリをほぐす。「花畑麦畑」でカミサンが描いていた、例のマット型マッサージ器だ。身体をまかせたまま読書。

 十七時、スーパーへ晩ご飯の買いだしに。鶏挽肉、トマト、ゴーヤなど。

「笑点」を見ながら晩ご飯の準備。今日のメニューはキーマカレーとゴーヤサラダ。カレーはぼくの担当。「サイボーグ009」がはじまるまでに作っておいた。

 で、「009」。サイボーグ開発秘話。来週からオリジナルストーリー「ミュータント編」がはじまるらしい。「黒い幽霊団」復活か。たのしみだなあ。

 十九時より「鉄腕ダッシュ」を見ながらアイロンかけ。二十時、夕食。キーマカレー、できは上々だ。ビールが進む。ご飯はタイ米を炊いたのだが、やはりこっちのほうが国産米よりあうなあ。

 二十一時より「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」を見る。やっぱりこれがいちばんおもしろいなあ。
 それにしても、日曜日はどうしてテレビばかり見てしまうんだろう。

「日本文学盛衰史」。「本当はもっと怖い『半日』」。「チャーシューメン」のリズムでドライバーを振り回す森鴎外。はあ。続いて新章「Who is K?」。啄木の「時代閉塞の現状」を書かせたのは、じつは漱石ではないか、さらには内容の鋭さと危うさを危惧し、漱石はその原稿をオクラにしてしまったのではないか、という新考察。これはおもしろかった。漱石という作家が、どんどんわからなくなるよ。


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7月13日(土)
「見逃しちゃった/バーゲン行きました/ヨハネの生首/似ているから/単純だから」


 しまった。寝過ぎた。渡辺篤史の「建もの探訪」見逃しちゃった! 「ののちゃん」も半分見逃しちゃった! どうしよう。失った時間は取り戻せない、と大騒ぎしている自分が情けなくなる。「発見! ひざポン」を観ながら掃除など。

「王様のブランチ」を観ながらブランチ。ちょうど映画紹介のコーナーで、昨日日記で酷評のような愛情のようなよくわからない感想を展開し途中で放棄するという情けないことをやってのけた(のけた? ちょっと違うな、まあいいや)「スター・ウォーズ」の特集。そういえば、元JICC出版(エロに走る前の宝島社、ね)の町山が「サイゾー」でこの映画をコキおろしていたなあ。「緑色のCGのバケモノにニンゲンが演技で負けてる」だとか、書いてたような。彼の言う「緑色のCG」とはほかでもない、老師ヨーダのことだ。「百恵・友和の青春映画を観るようなこっぱずかしさ」みたいなことも書いてたなあ。ああ、どんどん観たくなってきたぞ。

 午後より新宿へ。目的はバーゲンだ。伊勢丹へ。フツーな感じの女の子でごった返している。年齢の幅は広いかな。オバサマもけっこう多い。本館二階「Y's bis LIMI」。ありゃ。リニューアルされている。でも広さは変わってないな。「いいの、ナーイ」とカミサン。続いて三階「Y's」へ。いかにもワイズが好きそうな女性と、へ? という感じのフツーの流行を意識したコジャレた感じのお嬢さんでごった返している。カミサン、カットソー二枚を購入。ひとつはちょっと古びた風合いの八部袖で、襟回りのカッティングがちょっと変わっていて愉しい。もうひとつはベストとTシャツが合体したようなデザイン。これはぼくが気に入って勧めたものだ。ちょっとキュート。
 別館に移り、「Yohji Yamamoto Pour Homme」へ。セットアップは不作。昨日、あらかた買い漁られたんだろうなあ。半袖シャツ一枚を購入。肩の部分が二重になっており、ギャザーがはいっているおもしろいデザイン。エリはボタンダウンだ。いかにも最近のヨウジっぽい。
 向かいにある丸井へ移動。うーん、ここはあんまり好きじゃないんだよなあ。カミサン、バッグを物色するがいいものが見つからず。ボーイッシュな通勤用ショルダーが欲しいらしいのだが、市場にそのようなデザインの商品はどうやらほとんど出回っていないらしい。
 丸井メンズ館。「Y's for Men」へ。うーん、ここも今ひとつ。
 
 吉祥寺へ移動。メンチカツで有名な肉屋の近くでmiarofaさんにバッタリ。微熱があるそうだ。ご自愛くださいませ。
 パルコの「Y's for Men」。おお、いい感じのあるじゃん。ちょっと使い込んだような風合いの綿のセットアップを購入。それからTシャツ。かの悪名高い自分大好きナルシスト社長・大神源太が着ていそうな黒のメッシュ素材だ。ちょっと恥ずかしいかな。でも気に入ったから買っちゃった。続いて「Y's」へ。カミサンもセットアップを購入。スカートのデザイン、スゲエと思った。
「カルディ」で冷麺やミネラルウォーターなど。「ロヂャース」で猫のごはんと麦次郎の新しい首輪。明るい青色。蛍光色で魚のかたちをした刺繍がほどこされている。

 帰宅後、さっそく麦次郎の首輪を新品に取り換える。おお、やっぱりムギには青がよく似合うなあ。でも、ちょっとダサイ。

「美の巨人たち」。ギュスターブ・モロー「出現」。空中を浮遊する、輝ける聖ヨハネの生首とサロメ。絵には「ヤラレタ」という感じ。すっかり打ちのめされてしまったが、番組自体はちょっとおもしろくなかった。きっとモローの人生が地味だからだろうな。

「どくろ杯」。浮気相手に想いを寄せる妻に悩まされつづける優柔不断な金子光晴。ヨーロッパ行きを決断しかねている。浮気うんぬんはともかく、彼の感性や性格は、なんだかちょっと自分に似ているような気がして、この作品を読んでいるとときどき恥ずかしくなって「あああ!」と声を上げたくなるときがある。似ているから、魅かれるのかなあ。
「日本文学盛衰史」。文学ってなんだろう。ページが進むに連れ、テーマはどんどん単純化してくる。そしてどんどん、手に負えなくなる。

 
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7月12日(金)
「快適な遠回り/限りなく小説に近い企画書/スター・ウォーズに想う」


 暑い。汗をかくと思考回路が異常を来すので、今朝から日陰の多いガード下を歩いて通勤することにした。わずかに遠回りとなるのだが、温度と発汗量がまったく違ってくる。快適だなあ。

 十時三十分、岡山に住む義父が上京、事務所へ。東京で住む家を探しに来たのだ。東京出張が多いのと、定年後は東京に住みたいということで、こちらにも家がほしいとのこと。カミサンと一緒に物件の下見に出かけていった。

 十六時、N社の事務所にてキャッチフレーズのプレゼン。企画書は限りなく小説に近い。こういうのははじめてだなあ。企画書に登場する「わたし」はおそらく100%ぼく自身ではないので、やはりこれは小説だろうな。だが、クライアントはみな「エッセイ」と判断したようだ。おもしろいなあ。で、肝心のキャッチフレーズ、ウケは上々。クライアントがわかっていたけどわかっていなかったこと、を気づかせるのには成功したようだ。あとは採用されるかどうか。なんか、結果はべつにどうでもいいや、という気分だ。愉しめちゃったから、もういいですごちそうさま。それが正直な感想。こんなこといったら、怒られるかな。

 帰社後、事務処理、雑務等を済ませてから帰宅。なんか疲れたなあ。

 そういえば、明日は「エピソード2 クローンの襲撃」の封切りだ。だからであろう、放送されていた「エピソード1 ファントム・メナス」、一度見ているのにあーあ、またまた見てしまう。テレビで「スター・ウォーズ」が放映されると、そんなに思い入れがつよいわけではないのについつい観てしまう。一度劇場で観て「おもしろいけど、まあ、こんなもんかぁ」なんてつぶやきながら肩を落として帰ってきたこと、忘れてないってのに馬鹿だなあオレ。でも「ポッド・レース」のシーンと、馬と蛙の合の子みたいな知的生物、あれなんて名前だったっけ、まあいいやそれとドロイド、SFでいうところのアンドロイド、人型ロボット兵器との戦闘シーンは二度目でもおもしろかった。でも戦闘シーンしかおもしろくない映画ってちょっとさみしいなあと思う。それにこのシリーズ、ラストは必ずハッピーエンドというのもいただけない。あ。「帝国の逆襲」だけは違った。あれはぼくがいうところの「どうなっちゃうの?型」だったっけ。ハッピーエンドは物語の死だという話は以前日記に書いたような気がするが、死ばっかり続いているのに物語がどんどん発展し続ける「スター・ウォーズ」は、不死と再生の物語なんだと思う。こういう展開はパートなんとかと続編ばかりが続く映画に多いんだけど、あんまりおもしろくないことのほうが多いんだよなあ。
 「スター・ウォーズ」の展開については書きだすときりがないのでこの辺で止めておこうと思う。
 と、けっこう批判的なワタクシであるが、じつは「クローンの襲撃」はぜったい観に行こうとキメている。

「どくろ杯」。大阪という街と金子光晴。ふうん、谷崎潤一郎に「なんか書いて」と色紙や短冊をもっていったことがあるのか。
「日本文学盛衰史」。明治時代の文学の進化のスピードは現代の比ではない。そして、このころに言い争われたことのほぼすべてが、現代にまで解答を持ち越されたままでいる。


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7月11日(木)
「台風一過/逃げ込んで頭痛解消/落ち込む/詩人だからなあ/クロ號」


 台風はイヤだ。というより、雨がイヤだ。濡れたくない。眠っているうちに東京を通りすぎてくれ、台風六号よ、と思っていたら、ほんとうに通り過ぎてくれた。アホみたいな晴れ空がうれしかったが、一歩外に出ると汗が滝のように流れ落ちる。すぐにご機嫌斜めになった。
 なんて個人的なことを書いている場合じゃない。東北地方では水害で何人かが命を失っているらしい。心が痛む。防ぐ方法はなかったのだろうか。

 午前中は田町にあるシステム関係を手掛けるT社へ。E社の会員向けウェブサイトのデザインコンペの打ち合わせ。E社は住宅関連会社。最近不動産が続いているなあ。

 十四時、帰社。暑くて仕事にならん。おまけに体調不良。頭がガンガン痛む。背中も痛い。不快さに根をあげ、近所のリフレクソロジーサロン「プラス・ド・ルポ」へ逃げ込んでしまう。一時間ほどマッサージしていただいたら、すこしだけ頭痛が落ち着いた。コリが原因みたいだ。料金、誕生月なので千円おまけしてくれた。

 下ネタ美女、おいちょすからメールが届く。八月三十一日に行われる浅草サンバカーニバルにでてくれる陽気な人を募集しているらしい。ダンサーを募っているみたいだけど、太鼓たたきでもいいんだって。ぼくは遠慮しとこ。見ているだけでいいや。

 二十時、ウェブデザイナーOさんとO社CD-ROMコンテンツ制作の打ち合わせ。麦茶を飲みながら。
 二十一時三十分、帰宅。今日は猫たちのお出迎えがなかった。落ち込む。

「どくろ杯」。唖然とするほどの貧困さ、と自由奔放な(そのように生きざるをえない)生きざまゆえに生じる苦しみの、対比。 ちょっと気に入ったところがあったので、また例によって引用。

 私たちのくらしは、外見も、なかみもともに加わるものもなければ、滅びるほどのものもなく、太陽は、くる日も、くる日も、同じところに引っかかって、私たちの人肌の愛情を生殺しにぬくめいているのであった。一生はこのまま、こんな状態ですぎてゆくのではないかとおもわれた。

 すごいなあ。詩人じゃなきゃ、出てこないようなことばだと思う。

「週刊モーニング」。「クロ號」。悲しみは深いけど、それはやがて薄れていく。自分が生きなきゃいけないからだ。都会で生きていく猫にも、自然の摂理はあてはまる。


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7月10日(水)
「キライらしい/ドラマ二連発」


 台風が関東地方に接近している。今日はその影響のためか、雨。じっとりじめじめ。汗と湿気とで朝から身体はベトベトだ。
 なんか、夏になってから日記の書き出しがずっとこんな調子だなあ。どうやらぼくは夏がキライらしい。……そうだったっけ?

 日中はO社のウェブサイト、A社DM用リーフレットの原稿など。一段落したところでN社の不動産物件のコピーの企画書。

 十二時三十分、金子光晴ファンのかたが公開しているウェブサイトを見ながらお弁当を食べる。「ギャルリ カプリス」の目黒氏より電話。梶原に企画展の話をもちかけてくれた。個展の開催は三月末になりそうだ。順風満帆。

 空模様が荒れだすと困るので、十九時に店じまい。スーパーでカミサンと晩ご飯のおかず、ビールなどを買ってから帰宅。

 二十一時、「ショムニ」。痛快OL活劇だなあ、と思った。
 二十二時、新番組「東京庭付き一戸建て」。原田芳男の演技と、シナリオのセリフのキレのよさに圧巻。ちょっと期待できそうだ。

「日本文学盛衰史」。青年時代の島崎藤村のモノローグ。


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7月9日(火)
「今日は半分くらいが引用」


 昨日はエアコンが効かず苦しんだが、その理由がわかった。どうやらモードを「暖房」にしていたらしい。近眼ゆえの大間違い。カミサンに大目玉を喰らった。はあ。
 八時起床。野菜倶楽部でモロヘイヤジュースを買ってから事務所へ。午前中、仕事をしながらお茶代わりに飲む。おかしな(失礼)栄養ドリンクよりはこっちのほうが効くような気がするのは気のせいだろうか。この手のものは依存症になりがち、気をつけて摂取しないとなあ。今のところは週一回のペース。まあ、いい感じだと思う。
 夕方までA社のDMの原稿に没頭。
 昼食は「それいゆ」でカレーセット。外出ついでに書店で「群像」八月号を購入。ついでのついでに古書店にも寄ってみる。そういえばオレ、荻窪(正確には西荻だけど)に住んでいるッてぇのに井伏鱒二は短編しか読んだことないなあと思い、衝動的に「荻窪風土記」「山椒魚」を購入。「山椒魚」は昔読んだような記憶が。でも思い出せないんじゃ読んでないのと一緒だよね、じゃあ買おう、読んでおこう。それから坂口安吾「肝臓先生」。安吾は敬愛しているが、この作品はまだ読んでないや。目次をみたらこの本はどうやら短編集で、「わたしは海をだきしめていたい」とか、ぼくの好きな作品も掲載されている、ってことは読んだことある作品ばっかし? でもまあいいやたったの二百三十円だもん古本だから、というわけで、こちらも買っちゃうことにした。
 夕方より不動産会社N社の件。限りなく小説に近い企画書になりつつある。プレゼンで顰蹙を買わなきゃいいが。
 オークションに出品していたソニーのPDA「クリエ」が落札された。落札価格は七千二百五十円。ぼくはこれを六千二百円で手に入れているので、九百五十円の儲け。……あんまりうれしくない。
 二十時、暑さに負けているのか、疲れたので本日は店じまい。「開運なんでも鑑定団」を見ながら夕食。久々の石特集に興奮してしまった。が、今回はナンセンスな鑑定依頼はなかった。あの馬鹿馬鹿しさがいいのだが。
「どくろ杯」。金子光晴の夜逃げ。
「日本文学盛衰史」。胃潰瘍で死にかけた作家タカハシさんと、肝臓の病で死にかけているホモで独身の編集者カネコさんの会話。ちょっとおもしろかったので(というより考えさせられた)、引用。長くなるかな?

 手術が終り、麻酔が醒めると、カネコさんは開口一番、こういったそうです、
 ぼくの余命はあとどのくらい、ドクター、隠さず教えてください、
 するとドクターは眼鏡を押し上げながら、そうですね、再発の可能性はざっと80パーセント、もし再発したのなら、余命はおおむね一年ぐらい、と答えたのでした、
 セックスも十分やった、美味いものも食った、へんてこなものをイヤというほど見た、だからあと一年、自分の魂でも見て暮らしたい、そこでお願いがあるのだけど、死に行く患者の退屈を紛らわしてくれるものなに?
 モーツァルトと夏目漱石、私ははじけるように答えました、
 三日後、カネコさんからまた電話がありました、
 カネコさんはまた掠れた声で、こんどはこういったのです、
 モーツァルトは素晴らしい、あれは至上の音楽だ、あとからあとから涙が溢れ、見知らぬ誰かが耳元で、「きみは赦された」とささやく声さえ聞こえたよ、でもごめんね、漱石は読むのがつらくて耐えられない、ぼくも昔は読んだのに、読んで感心したこともあったのに、なぜだか読むと暗くなる、それからごめんね、実はきみのも読めないんだ、
 死にゆく人に読まれない小説、
 先生、正直に申し上げますが、病の床に伏せっているとき、わたしもあなたの小説を読むことができませんでした、『坊っちゃん』を唯一の美しい例外として、

 マルがないので読みづらいかな。源一郎氏は意図的にそうしているようだけど。続いて、この章のラスト。

 漱石にとって、小説は生の側に属していた。生きていたい。漱石はそう思った。生きて、生きている人たちの側に立ちたい。だから、漱石が選んだのは明澄な散文であった。その散文の中ではどんな曖昧さも生きることは許されなかった。救済もなく、また希望もなかった。真の絶望もなかった。なぜなら、ふつう人はそのように生涯を送ることしかできないからであった。




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7月8日(月)菜っ葉の日
「グッタラ/改行のちから」


 暑い。エアコンが効かん。なんだこりゃ。暑い。暑い暑い暑い。寝汗。枕カバーがしっとりしている。パジャマ代わりのTシャツはしっとりを通り越してグシャグシャだ。と思いながらも不快さを押し殺すようにして起床。テレビをつける。本日の予想最高気温、三十二度。さんじゅうにどぉ? 気が萎える。その数字を見た途端に、頭の先っちょから湯気が吹き出るような気がした。
 猫たちもちょいとグッタラしている。

 九時十分、出社。朝からエアコンをガンガンかけることにする。でも、モードは「ドライ」にしておいた。こっちのほうが消費電力が少ないような気がするんだけど、それは無知ゆえの誤解ってヤツかな? わかんないや。 

 日中はA社のDMに終始。ときどき気分転換のために事務処理。銀行で税金を払ったり、通帳記入をしたり。

 夜、待ちに待った、というよりさんざん待たされたO社のホームページの得意先の赤字がようやく戻ってきた。さっそく原稿整理。明日の朝イチからデザイン修正に取り掛かれるようにしてから帰宅。二十一時四十分。

 帰る足取りが重い。暑いからだ。今夜は熱帯夜かな。

 と思ったら、家に着いたときにちょうどいいタイミングで放送されていた天気予報で、気象予報士のおねいさんが「今夜は熱帯夜に」といっていた。エアコンフル回転だな、今夜も。限りある地球の資源を無駄遣いしているような気がちょっとしたが、イヤそんなことない、と思い込むことにする。でも、はやいところこの問いの答えを見つけておかないと、ほかの人と話すときやこの日記を書くときに、偉そうなこといえないなあ。

「濱マイク」。あちゃー。監督が変わると、ここまで変わっちゃうものか。

「ビッグコミックスピリッツ」。乙葉ちゃん、水着グラビアはやめたらしい。ああ、よかった。それにしても。絶句。

「日本文学盛衰史」。改行のちから。それは、広告文士であるぼくにも、よくわかる。


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7月7日(日)七夕
「ダルダルのグラグラ/飽きてきた/空手バカボン/猫風呂日和/和風ステーキ丼は分量に注意してお食べください」

 九時、花子にご飯をせがまれ起床。晴れてるなあ。寝ぼけ眼で缶詰めを開け、ついでに窓を開け、鳥籠にかけていた明かりよけの布を取り、再びベッドへ、二度寝を決め込む。
 十一時、本日二度目の起床。身体はダルダル、頭はグラグラ。たんなる寝過ぎだろう。八時間以上寝ると、体調が変になるようだ。

「ハローモーニング」。モー娘。にも飽きてきたなあ。そろそろ景気のいい新曲が聴きたい。セクシー8とか、あんなのどうだっていいや(なんて書くと熱狂的ファンのかたに叱られそうだな)。
 午後からは、自宅でMacに向かってアイデアをまとめる作業。没頭。

 十五時三十分、猫二匹を風呂に入れる。花子、風呂場では珍しく無抵抗。ウンコもオシッコもでなかった。暖かいシャワーを浴びると気持ちいいということがわかったらしい。シャワーを止め、身体を拭くと、今度は不快感のほうが強くなるらしい。激しく抵抗しだす。続いて麦次郎。ナンナンと情けなく泣き叫ぶが容赦せず湯を浴びせ、シャンプーを体中に塗りたくってゴシゴシと洗ってやる。コイツ、ベランダや外廊下でゴロンゴロンと寝ころぶのが趣味なので、花子より汚れているのだ。だから身体洗いもちょっと激しくなる。いやそうだが、しかたない。洗っているぼくは、けっこう楽しかったりする。

 風呂上がり。二匹は不快そうに身体をなめ続けている。声をかけても寄ってこない……まあ、いつものことだ。

 ちょっと休憩、というか、例のアイデア出しの作業をしてから、今度は鳥籠の掃除に取りかかる。洗っているあいだ、風呂場でうりゃときゅーを出してあげた。二羽ともご機嫌のようだ。
 十七時、コープと富士ガーデンへ。牛ランプ肉が特売になっていたので購入。ほか、大根、大葉、かりんとうなど。

「サイボーグ009」。いわゆる「ホテル風009」調のオリジナルストーリー。次週から、ふたたび「黒い幽霊団」が登場するらしい。原作にあったエピソードをどこまで再現してくれるのか。現代版「地下帝国ヨミ編」が観たいなあ。

 十九時、フジテレビの「二十七時間テレビ」のフィナーレを観る。あえて募金という行為をせず、「夢」にこだわり続ける制作姿勢は素晴らしい。金にまみれてしまった「二十四時間テレビ」より、正直言って面白いと思う。みのもんたの枯れた涙に不思議な感動。テーマ曲の「あの素晴らしい愛をもう一度」が、最後に合唱されていた。って、この曲オリジナルはだれが歌ってたんだっけかなあ。思い出せないや。ふと「空手バカボン」を思いだし、カセットテープを引っ張り出して聞いてみた。「バカボンと戦慄――スターレス&バカボン・ブラック」。ククククリムゾンの歴史的名曲があぁああああああ。爆笑。「空手バカボンのテーマ」。あーあ。「We Are The World」をコケにしちゃってるよぉ。爆笑。そしていよいよ「あの素晴らしい愛をもう一度」。名曲に対する冒涜。さっき感動をもたらせてくれた名曲と同じ作品だとは誰も思うまいってギャハハハハハハッハ。大爆笑。ああ、なにやってんだか。
 夜は和風ステーキ丼を作って食べる。牛肉をミディアムレアに焼き、残った肉汁を使ってバター、醤油、酒でタレを作る。どんぶりに飯をよそり、食べやすい大きさに切ったステーキ、大根おろし、大葉の細切りを乗せ、上から特製のタレをかけて出来上がり。美味だが、多いと飽きる点が問題かな。次からはてんこ盛りに作るのは止めておこうと思う。

 七夕だが、夜空は見なかった。

「日本文学盛衰史」。源一郎氏自身の体験が盛り込まれる。さっそく「露骨なる描写」を取り入れた、ということかな。


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7月6日(土)
「ウンコしたいから/小心者/文体が好きだ/見つからないよ、いつものことだけどさ/ウッシーの世界/自然主義の限界」


 花子から猛烈な起きてよ攻撃を見舞わされる。うう、寝坊したいっちゅうのに。やむなく九時五十五分に起床。猫トイレをチェックすると、麦次郎がしっこした跡がある。こいつを片づけたら花子のヤツめ、待ってましたといわんばかり、スタタタッとトイレに駆け込み、執拗に砂を掻きはじめた。おお、ウンコかよ。しかも、たっぷりと。一昨日出していたはずだから、腹の中には二日分しかためていなかったはずなのに、量が異様に多い。さては出し惜しみしたな、花子。どうやら起きてよ攻撃は「ウンコしたいからトイレ掃除してよ」という意思表示だったらしい。自己主張やら要求やらの多い猫だよなあ。

 朝食を済ませてから新聞を取りに行こうとすると、麦次郎が「外に出せ」と騒ぎはじめた。首輪にヒモをつないでマンションの外廊下に出してやることに。しばらくは彼の気の向くまま、自由にさせてやったが新聞を読みたいので、「まだここにいたい」という麦をだっこして一階まで降りてみたら、案の定、臆病な麦はパニック状態に。「いやだいやだいやだこわいこわいこわい帰る帰る帰る」と大騒ぎ。わかったよ、と麦を抱きかかえ、新聞を断念して二階(ウチは二階の二○二号)に戻ろうとすると、今度は階段の上で激しく暴れ出す。腕の中から飛び降り、なにをとち狂ったか一階へ逆戻りし、一○二号室に逃げ込もうとする。馬鹿だなあ。二○二号室と間違えているな、さては。「階」ということがよくわかっていないらしい。抵抗する麦を抱きかかえ、なんとか二階まで連れていくと、麦め一目散に我が家へ走っていった。小心者だなあ。

 食後はじっくりと金子光晴の「どくろ杯」。奔放な生きかたのなかに見え隠れする、というよりは生きかたをすっぽりと包み込む、希望の捨てきれない人固有の虚無感、のようなもの。矛盾しているが、これこそ生きることの原動力なのかな。しかし、それよりもなによりも、ぼくは金子光晴の散文の文体が好きだ。

 十五時三十分、吉祥寺へ。カミサンの通勤用バッグを物色するために丸井吉祥寺店へ。ところが、気に入ったものはなかなか見つからず。日々の服装にまったく流行を取り入れず、好きな服だけを着ることをモットーとしているカミサンは、よくこのような状況に陥る。趣味が偏り過ぎていて、欲しいものがなかなか見つからないのだ。求めるデザインのものがすぐに見つかったことなんて、ありゃしない……というのは大げさだが、それに近い状態がいつものことなのだ。流行を無視して服を選ぶのはぼくも同じだが、ぼくの場合はお気に入りのデザイナーが決まっているので、こういった状態に陥ることは少ない。でもレディースは流行に左右されがちみたいで、贔屓にしているショップが次のシーズンも気に入った商品を出してくれる保証がないに等しい。着たい服を着る、使いたいものを使うという単純なことが難しい時代になってしまった。あーあ。

 十六時、けいぞう(♀)と待ち合わせて、梅ヶ丘へ。テキスタイルアーチストをしている友人、牛尾卓巳くんが「世田谷ギャラリー」で個展を開いているのだ。いつもは自分で作った不思議な感覚の布地で巨大なオブジェを制作したり、ちょいと前衛的な舞台の衣装デザインなどを手掛けているのだが、今回は、着れる服、普通に売れる服を展示しているらしい。タイトルは「Clothes」。ズバリ、服。久々にあったウッシーは元気一杯で、ちょいと優柔不断なところがなくなり自信に満ち溢れているように見えた。彼独特の風合いの布地を使った前衛的な服が並んでいる。ウール素材をベースに、植物を折り込んだシリーズはプレタのデザイナーも顔負けの逸品。絞り染めをしたマフラーのシリーズは、本気で欲しいと思った。個展が終わったら売ってもらおうと思う。

 このギャラリー、個展スペースがふたつある(正確には、名称の異なるふたつのギャラリーが隣同士になっているのだが、どうやら経営者は一緒らしい)。隣の会場では、ウッシーとけいぞうの共通の友人、岡崎絵美さんが個展を開いていた。彼女の専門はガラス工芸。天衣無縫な造形の器やオブジェを使ったインスタレーションになっていた。みんな、がんばっているなあ。

 けいぞうとちょっとだけお茶してから帰宅する。

 夕食はお好み焼きに。「花畑麦畑」にあるように、花子は今夜もカツブシまみれとなって喜んでいた。

「日本文学盛衰史」。うわ、強烈な庵野監督の「ラブ&ポップ」批判。そしてアダルトビデオに文学性を求めてしまう自然派作家、田山花袋。「露骨なる描写」は文学性と両立できるのか。それとも、真にあからまさな描写こそが「文学」なのか。自然主義の限界が、虚構の明治という設定の中で見え隠れしている。


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7月5日(金)
「ジャケットとお馬鹿さん/最悪の頭痛薬/中華料理は三人で/AVと春画」


 会社まで歩くこと五分。着いたときには全身汗でびっしょりだ。人と会う約束のない日はTシャツ一枚でもいいというのに、どうしても感覚的にそれを自分に許すことができず、ついついジャケットを着込んでしまう。風通しのよい夏物の素材でできているとはいえ、やはり暑いものは暑い。必要以上に汗をかいてしまう。それでもジャケットが手放せない自分は、ただの頑固者なのか、はたまた頭が悪いのか。……うーん、後者のような気がしてきたぞ。

 今日は延々と事務所でA社のDMの構成案に終始する。夕方、強烈な頭痛に襲われたため、しばし仮眠をとることに。これが逆効果で、頭痛はさらに悪化。それでもスローペースでアイデアをまとめ、コピーの素案を捻り出し続けていたら、いつの間にやら頭痛はやんでいた。最良の頭痛薬は仕事? ワーカーホリックみたいでイヤだなあ。

 仕事の合間に、お亡くなりになったS部長のために弔電を出す。

 十九時三十分、まいどおなじみけいぞう(♀)登場。西荻窪の桂花飯店で四川料理に舌鼓を打つ――といっても、そう高価なものではない。三人でビール一本と、エビチリ、水餃子、鶏肉の辛味炒め、五目かた焼きそばで金四千五百円也。いずれも他店ではお目にかかれない独創性の感じられる味で大満足だ。三人いるから、大皿の料理を何品か同時に愉しめるのもよい。お店の雰囲気が地味で陰気なのだけが難点だが、そんなことはこの際目をつぶろう。ここはオススメの穴場。

 食後は「それいゆ」で水出し珈琲。女子大生の四人組(いや、OLさんかな)が、生クリームてんこ盛りのアイスラテをグビグビと飲んでいるのを見て、ちょいと恐ろしくなった。

「日本文学盛衰史」。家族の生活のために、ブルセラショップで店長を勤める啄木。「蒲団 女子大生の生本番」の撮影をはじめようとする花袋。撮影前の、花袋による他のアダルトビデオ観賞記がおもしろい。意味不明、笑いかエロかよくわからん企画もののAVと、性に対してあっけらかんとしていた江戸時代の春画のコンセプトを結びつけてしまうのは、さすが源一郎氏。


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7月4日(木)
「アヂアヂアヂアヂ/酒呑み/アヂアヂアヂアヂ/ほんとうに残念だ/どくろ杯」


 八時起床。外は晴れているようだが、湿度が高く不快な暑さが我が身を囲み込むように襲いかかる。アヂアヂアヂアヂ。夏が来た。

 便所掃除を済ませてから仕事に取り掛かる。暑さのせいか、アイデアも滞りがち。出てくることばの切れ味も悪い。

 苦しんでいたら、ヤフーのオンライン書店「イーエスブックス」から、注文していた本が二冊だけ届く。岡本太郎「今日の芸術――時代を創造するものは誰か」、金子光晴「ねむれ巴里」。
 十四時、デザイナーのTさん来訪。目的は顔合わせだ。今後、いっしょになっていい仕事ができればなあ、と思う。Tさん、西荻の呑み屋が気になるらしい。さては酒呑みだな。
 十七時、A社のDMの打ち合わせのため、新富町へ。代理店J社の皆さんも心なしかへばっているような。アヂアヂアヂアヂという顔をしていた。

 S部長の通夜が明日行われることになった、とサラリーマン時代の後輩から連絡が入る。いちばんお世話になった上司なのでぜひとも焼香したいのだが、残念ながら不円満退社ゆえ、古巣の連中が集まる場所には顔を出せない。周囲に不快な思いをさせてしまっては、部長のお弔いにならなくなってしまうので、通夜出席は断念することに。ほんとうに、ほんとうに残念だ。仲の良かった先輩に香典を託すことにした。よろしくおねがいします。

 金子光晴「どくろ杯」を読みはじめる。大正時代に子どもをほったらかしにして夫婦で海外を放浪したときの様子を小説(エッセイ? いや、これは小説だ)にしたもの。苦悩するエロジジイの本領は、詩だけでなく散文にも発揮される。以前読んだ「風流尸解記」も傑作だった。
「センセイの鞄」。この手の恋愛小説は、どうも苦手だ。うーん、最後まで読み続けられるかなあ。自信ないや。

「週刊モーニング」。「バガボンド」、目が離せない。「クロ號」、バガボンド以上に目が離せなかったのに、こんなことになるなんて。でも、こういったエピソードがあるからこそ「クロ號」は評価されているのだと思う。しかし、しかし……この手のお話が掲載された後、数週間はこの作品を読めなくなってしまう。俺って情けないなあ。


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7月3日(水)
「今日はひとことだけ」


 サラリーマン時代にぼくの上司だったS部長がお亡くなりになった。
 部長のご冥福を心からお祈りいたします。


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7月2日(火)
「ウンコが出ない/じつは読んでない/失敗作/街の定義とは/ウンコが出ない/女子大生の生本番」


 朝四時に花子にご飯をせがまれ起床。缶詰めを与えるが、以後花子の夜鳴き(?)、明け方まで続く。うるせえ。おかげで今日一日、眠いったらありゃしない。どうやら、ウンコがでなくて困っているらしい。不快らしい。イライラするらしい。

 日中、時間が空いたので、事務所の近所の本屋さんへ。「日本文学盛衰史」に感銘を受けているので、今月は近代文学強化月間と決めた。となると、やっぱり買い込んでおかなきゃ。芥川龍之介「偸盗・地獄変」、太宰治「新樹の言葉」、織田作之助「夫婦善哉」、「坂口安吾全集10」。芥川と大宰、じつはあまり読んでいないのだ。芥川は、えっと、「河童」くらいかなあ。大宰は「走れメロス」「富嶽百景」「女生徒」「人間失格」「トカトントン」かな。まあ、芥川よりは読んでいる。織田作は大昔に読んだが、内容をすっかり忘れていたのでもう一度読むことにした。安吾は敬愛する作家のひとり。小説はかなり読んだ。「いづこへ」は、ぼくがもっとも気に入っている小説のひとつだ。今回購入したのは筑摩の文庫判なのだが、これ、全巻揃えようとしたが、いつの間に花書店であまり見かけなくなり、頓挫したままだった。

 そば屋でせいろとミニ親子丼をカッ込みながら芥川の「偸盗」を読みはじめる。これ、生前は「失敗作」としてお蔵入りしていた作品。ところがどっこい、読んでみるとおもしろいのでびっくり。でも、あえてオクラにした理由、わからなくもない。

 十七時、コンペのオリエンテーションのために大崎へ。とある都市開発のキャッチフレーズなのだが、不動産は未経験なので自信がない。大崎はいわゆる再開発地域だ。といっても、もともと栄えた街が合ったわけではない。工業地帯。それをいちどゼロにリセットしてから、高層ビルを建てて再開発したわけだ。自然発生でない、意図的に作られた都市を「街」と呼んでいいものか。美しい無機的デザインの建築物から退出し、家路へと急ぐ人々の姿を見ながら、そんなことを考えた。

 夜はO社のWeb サイトのデザインチェック。二十一時、帰宅。

 花子、まだウンコが出ないらしい。しかし、一見つらくはなさそうだ。よくわからん。
 不覚。二十二時から、テレビ東京の「MUSIX」を観てしまう。モー娘。を中心としたハロープロジェクトのシャッフルユニットのお披露目だ。またまた「なっち症候群」になりかけている。「保田症候群」は治療できたんだけどなあ(ちょいと症状が異なるのだが)。

「日本文学盛衰史」。舞台は一転、(虚構の)明治時代へ。藤村の「破戒」から、花袋の「蒲団」に至る自然主義黎明期の系譜。ただし、作中では花袋は小説ではなく、アダルトビデオ作品として「蒲団」を描こうとする。引用はやめておくが、花袋にアダルトビデオ監督をさせようとするプロダクションの人間、山岸の口説き文句は名文だと思った。


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7月1日(月)
「貧乏臭い抵抗感/ホントに臭い古本屋/ナガセとキョンキョン」


 ほとんど予定がない。完全休養としゃれ込んでも良かったのだが、貧乏経営者の性というか情けない心配性というか、わりきって休みをとることに抵抗を感じてしまい、会社には出ることにした。
 蒸し暑い一日。気温は間違いなく昨日までより上がっている。梅雨明けが近いのだろうか。本格的な夏がやってくるのだろうか。汗ッカキなので、夏は困る。

 午後は荻窪税務署へ。源泉徴収に必要な伝票などをもらう。ついでに「オリンピック」で猫とインコのご飯、猫砂。荻窪駅前の書店で、町田康「夫婦茶碗」、高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」。古書店の「ブックオフ」にも寄ってみたが、臭さに鼻が曲がりそうになったので退散。なにが臭いって? お客さんです、不潔な身なりをした。

 事務所に戻って事務処理やちょっとした電話連絡を済ませてからは、「一億三千万人の〜」を読む。小説だけじゃない、あらゆる創作の参考書になると思う。目から鱗。

 十九時、店じまい。カミサンと西友に寄って晩ご飯のおかずを買ってから帰宅する。

 二十二時、永瀬正敏主演の「私立探偵 濱マイク」を観る(スゴイ、一発で「永瀬正敏」も「濱マイク」も変換できた!)。この、ちょいとずれた感じの世界観、スキだなあ。奥さんのキョンキョンがパチンコ両替店員兼情報屋の役で出ていた。と思うのだが。

「ビッグコミックスピリッツ」。「昴」。いけない、グダグダ展開の兆しが。「20世紀少年」。この作者は最初から全ストーリーをしっかり構成してから描いているのだろうか。その通りに物語は進んでいるのだろうか。次号の行く末より、この問題のほうが気になる。
「日本文学盛衰史」。「蒲団'98 女子大生の生本番」。あれ、これはねじめ正一の詩の文体? いや、町田康?
 川上弘美「センセイの鞄」。緩く、ゆっくりと進む物語。文体はきらいじゃないな。



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。妻は本サイトでおなじみのイラストレーター・梶原美穂。夫婦揃って夏に負けている。

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